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便利 ≒ 正しい


先日、友人とランチで利用したお店のことを少し。

店員さんは初めに「注文はこちらのバーコードからお願いします。」と言った。私たちは「はーい。」なんて、言われた通りするするとスマホを取り出し画面から注文をこなしたのだけど。何ともないと思いつつ少しだけ手こずったりしながら、友人と別々のスマホから注文をした。「これ、美味しそうだね〜」とか「デザートって、食べる?それならもう頼んじゃう?」とか言いながら、私たちはお互いのスマホを見つめ言葉を交わした。そうこうしている間にお店はあっという間に満席。私たちの隣には常連のような年配の夫婦がいて、後から若いカップルや、女性同士のランチ会、一人で来る女性なんかもきて一気に賑わってきた。そんな中私たちの隣にいたその老夫婦は「なんのこっちゃ。」みたいなことを言ってすぐさま店員さんを呼び、「ちょっと。注文の仕方がわからないのよね。」と奥さまは困り顔。結局、店員さんとの会話を頼りに注文をしていた。「おすすめは何なの?じゃあそれでいいわ。あなたは?他には何があるのかしらね。ドリンクはセットで付くの?なんだかよく分からないから、私もそれでいいわ。」とかなんとか、苦笑いを絵に描いたようなその光景を横目に、私は少しだけ世の不条理を感じた。

この世は「便利」で仕上がっているはずなのにな。裏表のコインのように「不便」を提供しているではないか?なんて。
老夫婦よりも先に届いた飲み物へストローをさしながらぼんやりと、そういう世の中に何とも言えないもどかしさを感じた。

それからそのお店ではその後も、お冷のおかわりをスマホで頼むこととなったし、最後のお会計もセルフレジになっていた。それが「良い」とか「悪い」とかではないよ。ただ私は、店内でお水を汲みに来てくれるおばちゃんがいる古風なお店が好きだし、最後は店員さんに向かって「美味しかったです。ごちそうさまでした!」と言いたかったんだ。そういうことはやっぱり誰に言うわけでもなく、私のわがままかもしれないけど。もどかしくてぼんやり。

こんな私のように心の奥でブツクサ言いながら世の中を見ている人は少なくないだろう。やっぱり今の時代、「便利」だからいいとは思えない。面倒くさいことにしか、愛は生まれないのだよ。

それはたとえばちっぽけでもいい。
洋服を綺麗に畳んでおくとか、冷たい麦茶を作っておくとか、エレベーターのボタンを押してあげることとか。使い終わったトイレットペーパーを替えておくことや、食器を水につけておくこと。スマホから子供の笑顔に目を向けること、一言「お世話になりました」とラインを送ることや、旦那さんの帰り道に「気をつけてね」とラインを送ること。「ありがとうございました。」と相手が見えなくなるまで見送ること、「ごちそうさま」と手を合わせること。「美味しかったよ」と目を見て伝えること。



世の中に溢れている。

「面倒くさいこと」を省いて、便利を追求することは「正しさ」のように見えて実は「破滅」に向かっているんじゃないかなと私は思う。だからって私が今すぐ大それたことで、世界を変えることができるか?って言われたらそんなことない。私にできることはこういうことを常々発信することだ。それでこれを読んだあなたがこの後、ほんの少し画面から目を離して。目の前の愛する人の話を聞いて、うなづいて、言葉を交わしてあげられたら。世界はきっと明るくなる。温かくなる。今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。今夜はそんな感じです

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