パンダと同じ
猫とか、パンダとか、愛くるしいよね。勉強とか家事とか、何もできないし、ダラダラしてるのに。それに愛犬や、赤ん坊や、「推し」なんかを見て、無条件に「存在が尊い!!!」とか「生きているだけで、可愛い。」「存在が、癒し〜!」とか、そんな風に思う人は多いだろう。
それなのになぜ、
旦那や、恋人や、部下や、友達や、自分のことになると、人を「無条件に可愛い」と思えないのだろう。大人になると、無条件に存在を許すことができないのは、何故なのだろう?
「良い子」「デキルひと」「良い旦那」「良い恋人」「人気がある」とか「実力がある」とか「思いやりがある」「仕事ができる」そんな条件付きじゃないと、自分のことを愛せなくなるのはなんで?他人のことを許せなくなるのはなんで?
それは、
人間 対 人間のジャッジが厳しいからじゃないか?自分にも、他人にも厳しすぎるのかもしれないな〜って。それが、最近のわたし。
そういうことに気がついて、
ひとまず、厳しすぎるジャッジをやめた。
まずは、自分のことを許すようになった。
「私の存在は、世界一尊い」
「生きているだけで、尊い。」
「出来ないこともある。」
「苦手なこともある。」
「たまに嘘もつく。」
「すぐ具合悪くなる。」
「でも、とっても良い感じ。愛に溢れてる。
「生きているだけで、本当はめっちゃ可愛い。」猫とか、パンダとかと、変わんないって。赤ん坊みたいに世界一愛しい存在だと。
愛してみた。許してみた。
そんで、他人のことも。
「あなたの存在は、世界一尊い」
「家事ができなくても、とても素敵」
「意地を張っちゃうこともある。」
「できないこともある。」
「自分勝手なところもある。」
「でも、いつも頑張ってるじゃん。」
「良いところも、悪いところも。」
「ぜんぶ、ぜんぶ。可愛い。」
そうやって、私と同じ。猫や、パンダと同じ。
赤ちゃんも、子供も、大人も同じだって。
同じ生きもの。生きているだけで、尊い。
ゆるゆる人間になってみた。
すると、この世界は可愛い者ばかりになった。自分の至らない点も、誰かのミスも。
大概のことは許せるようになった。
頑張れない自分のことは、もちろん。
意地悪な人のことも、許せない人のことも、自分の弱さも、他人の弱さも、まるごと受け入れられるようになった。大抵のことが、大丈夫になった。
ついでに、「自分のことを責めてしまう」そんな辛さを持つ人なことを、たくさん励ましたくなった。「あなたは自分が、世界一尊い存在であることを忘れていない?」
そんな風に、抱きしめたくなった。
たとえば貴方には、恋人なんていなくても、素敵だし。仕事ができなくても、素敵だよ。
喋れなくても、歩けなくても、虐められても、
勉強ができなくても、尊さは変わらない。
うつ病で1日が終わる?
何もせずに1日が終わる?
周りが羨ましくて1日が終わる?
そんなこともあるよ。
でもあなたは
「デキル自分」じゃないとダメなんてこと、
無いんだよ。「何も頑張っていない自分」は、ダメな奴だなんて言うなよ。
憧れの「なりたい姿」じゃなくて、
自分は今、どうありたいのか。いつでもゆっくり考えて。
みんな人間。弱さも強さも、そのまま愛して。らしくあれ!
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