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私が私のままで。あなたがあなたのままで。


たとえば、アメリカは銃社会だ。コンビニエンスストアに何食わぬ顔してそっと、人を殺すための銃弾が売られている。いや、それは人殺しのためではなく自分の命を守るための手段なのかもしれない。ちなみにあちらでは何も言わずにカメラを向けると、銃口と間違え殴りかかってくる人だっている。そのくらい、いつ殺しが始まってもおかしくないんだ。そしてマリファナは合法。ストレスでちょっと俯いてれば仲間たちが言う。「君も息抜きにやっとくかい?」なんて。それが正しいとか羨ましいとか、日本でもそうしたらいいとか、そういう話じゃないよ。あくまでそこではそれが普通。それが「ふつう」であり、日本との
ちがい」ってはなし。

それに海外では人種差別が続いている。
黒人はいまだに唾を吐かれ、どんな理不尽であっても、酷い仕打ちを受けたとしても何も言い返せない。彼らは黒く重たい憎悪が胸を這い回る中、「いつか。いつかアイツらを殺してやる」って復讐の念を立てている。周りから見たら矛盾なのかもしれない。どちらも理不尽だらけなのかもしれない。だが、何百年と歴史を超えて皮膚の内側まで刻み込まれた悲しみに、安全な場所でこれを書く私は何も言えないよ。私には白の血も、黒の血も入ってないんだからね。これもそれも「ちがい」の話。

それから日本人は完全に自滅タイプだよね。命が会社に潰されるひともいる。それにあの満員電車。詰め込み詰め込み、溢れた人間は俯きの果て、線路に飛び込み見せしめる最後の叫び。先進国とは思えぬ不幸度だ。
飛び降り自殺の瞬間をライブ配信する女子高生まで現れて。そんな異常事態にも、世間は冷ややかな目で画面をスクロールしていつも匿名希望の傍観者。手を挙げれば叩かれる。声を上げれば白い目を浴びる。それが普通。それが私たちの血。海外との「ちがい」かもしれない。


こうして「ちがい」という名の
それぞれの「普通」は、世界に並んでいる。


そしてこれらはあくまで例え話。
大袈裟かもしれないけど
世界に一億人いるならば、
一億人分の「ふつう」があるんだ

Aと伝えているのに、Bと答える奴がいて。
Aと伝えているのに、Cだと殴りかかってくる者がいる。Aが、Aだと伝わる「正解の保証」はどこにもない。誰が偉いとか、これだけは正しいとか結論は見えないもの。それはなぜかって、私を含めたみんなが「価値観」という目に見えない武器を振り翳して生きているからだよ。ね


ただ


本当の本当はこの世界に「優劣」などなく。
「価値観」は武器じゃない。
ただそこに「ちがい」があるだけなのにって。
私は思ったんだ。
みんなにも言いたくなった。

時に私だって、世の中には正義がたくさんあって困る。優しさに種類があって困る。大切な人とでも、思考のズレには終わりがなくて、胃を痛くするし頭を抱える。そういうことに痛感する毎日だよ。
通じ合えない心、理解できない思考、信じられない誰かの行動に悔しさや憤りを覚え、怒りを通り越し悲しみの塊となることだってある。そんな時、最後はいつも「諦め」かもしれないって思うんだ。「諦め」

でもそれでいいんだって。



本当に強い人は武器を握るひとじゃなくて、武器を捨てる人だろう?
自分の「価値観」を振りかざさない。

寄り添いの一歩目になるのは、
前向きな「諦め」じゃないかって思ったんだ。

その後の寄り添いまで歩めれば、世界は終わらないだろう。なんてね。



それから、最後にもうひとつ。
この残酷な世界で
損得だけじゃない。需要と供給だけじゃない。優劣じゃないところに本当の生きる価値があるって、ほんの一瞬でも気づけたら、心はどこかいつも幸福になるんじゃないか。生きる気力を失わずにいられるんじゃないかって思ったんだ。価値観とは違うとこで生きる。それも人間らしさだよ。

それはたとえば、雨の後にかかる虹や、空が毎日違う表情でこちらを見つめていること。意味のないことなんかに気づく時だよ。深く息を吸って冬には冬の香りがあって、春には春の香りがあることを体で感じたり。安心はいつも、人と人の間にあること。嬉し涙や、亡き人を強く思う時に閉じた瞳。静かな波の音や、なびく潮風に心を落ち着かせること。

そういう人間にしか感じられない幸せなことを大切にしたい。大切にして欲しい。だからそういう瞬間を書いて、書いて、書き続けてみんなに贈りたい。そう思った。

「価値観」が集まるのが残酷な世界なのかもしれない。でも人間として生きることへの希望を捨てたくない。捨ててほしくない。その一心でペンを握る。

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