冷笑的な”せむし”ー市川沙央『ハンチバック』の感想
7月19日(水)、第169回の芥川賞の結果発表がありましたね。
受賞は、市川沙央さんの『ハンチバック』。
ここからはその感想を書いていきたいと思います。
ネタバレありで、作品を読んだことがある人に触れてもらう前提でまとめています。まだ自分の中で整理しきれていない部分もあるので、公開後、文章的に違和感のあるところは修正します。内容の修正はあまりしない方針です。
感想と解釈
まずは、ネットで公開されているあらすじ。
どのように読んだか
重度障害を抱える市川さんが描く、障がい者の物語。受賞会見でも話にあがってましたが、「当事者の物語」といえる本作が、一つの小説として形を成している点が凄まじいなと思います。ややもすると社会学や福祉・公共の話に回収されてもしまう本テーマが、なぜ一つの小説になったのか。
小説終盤の別軸の物語はもちろんなのですが、個人的には「冷笑的な視点と自意識」が、フィクションとしての、小説としての本作を成り立たせているのかなと思っています。
「冷笑的な視点と自意識」とは何か。「お金」「田中さんとの関係」の2つの観点から考えていきたいと思います。終始一貫しているのは、市川さんが障がい者という、一見すると弱者と捉えることのできる立場を揺るがしながら、物語を紡いでいるということだと考えています。
「お金」について
障がいの話、性の話、それらと同等に作品内で姿をあらわすのが「お金」です。
本作の主人公ともいえる釈迦は、親が残した「ワンルームマンションを一棟丸ごと改造した施設」に住んでいます。さらに「他にも数棟のマンションから管理会社を通して家賃収入」を得ており、物語中盤に具体的な資産の話も出てきますが、金銭的にはかなり余裕を持って生活ができているといえます。
釈迦の生活に余裕があるさまは、「母親譲りの潔癖症が酷くて」「古本に触って平気でいることができないので、悩み抜いてブックスキャナを買った」ことや、「5000円以上する専門書だろうが、新品が流通していれば私は新品の本を買う」という様子から読み取ることができます。
「母親譲りの潔癖症」を抱える釈迦ですが、「卒論となると古本を回避しきれない」とあるように、どうにもならない際は古本を購入することもある。つまりは、お金によって自分が嫌うものを避けることができる、程度には生活に余裕があることがわかります。
さらに面白いのは、彼女は両親が残した資産だけでなく、自らライター仕事で収入を得ている、つまりは依存せずに経済的に自立しようとしているという点です。(もちろん、釈迦のライター収入が十分とは考え難いです。ここでは自分でお金を稼ぐことができる、という部分に意味を感じています)
<健常者 / 障がい者>という二項対立においては、弱者という位置にありつつも、金銭的な豊かさ・余裕という意味では強者にいるのが釈迦という人物なのです。
ただ、この作品が面白いのはお金が絶対的な価値を持っているわけではなく、お金が<強者 / 弱者>という二項対立を揺るがす装置として機能している点です。
そもそも、このお金の描写自体もとても面白いです。釈迦が稼いだお金は人の欲望(エロ・性欲)から生まれているものであり、さらに実際に取材には行かずにネットで集めた情報で執筆する「コタツ記事」で稼いでいる。
何でお金を得るのか、という価値基準はひとによってさまざまですが、釈迦は「粗製濫造された」と揶揄しているように、自分の仕事・稼ぎ方をどこか皮肉めいた視点から捉えています。
また、そのお金を寄付しているということにも注目しましょう。人の欲望と嘘から生まれた汚いお金を善意として還元する、この辺りもお金や資本主義の価値基準を、どこか否定するような、皮肉めいているようにも捉えられます(ここらへんは、仏教の理念と照らして解釈できそうですが、ぼくはそこらへんの教養がないので諦めます)。
ここで寄付が仰々しく描かれていないことも効果的だと思いました。釈迦がしているのは慈善行為といった大それたことではなく、「ふりかけさえあればお米が食べられるなどと、いじましいリクエスト理由がフードバンクのウィッシュリストに書いてあったから、Amazonからせっせとふりかけを送りつづける」という行為。汗水垂らして稼いだお金で、誰かの命を救っているという意識はそこにはありません。
本作におけるお金は、人々の欲望を嘘で醸成することで得て(≒粗製濫造されたしがないコタツ記事)、ふりかけ程度のほどこしを与えるために使われるという、相反する存在として描かれています。
そして先に述べたとおり、お金はその存在がアンビバレント(嘘と善意)なだけでなく、物語や関係の二項対立も崩していきます。
田中さんとの関係
お金と同じように、ヘルパーの田中さんと釈迦の関係性も歪なものとして描かれています。
田中さんは釈迦がいる施設に働くヘルパーのひとり、30代半ばの男性です。田中さんは釈迦の介護をしている際に、「弱者が無理しなくてもいいんじゃないですか」と、自らと釈迦の関係を<強者 / 弱者>という二項対立で表してきます。
しかし、そのセリフにつづけて「俺も弱者ですけど」とあるように、田中さん自身も弱者だと主張します。つまり強者と弱者という括りは、<健常者 / 障がい者>という二項対立だけでは捉えられないということが明らかになっています。
一見すると、健常者と障がい者というわかりやすい<強者 / 弱者>の構造を持っているようですが、強者(健常者)にいる側の人間自らがその構造を否定しています。言ってしまえば田中さんは健常者の中での弱者として自分を主張しているのです。
もっとも、釈迦を見下す様子や、釈迦が田中さんの介護がないと生活を十分に送れないという事実はあります。その点では2人の関係に優劣は明らかにあります。
一方で、釈迦の入浴シーンで立ち上がった際に、「165センチの私は田中さんを見下ろす形になった」とあるように、<健常者 / 障がい者>という括り以外の視点(このシーンでは身長の高低)で捉えると、2人の関係性は逆転する可能性も示唆されています。
そんな2人の関係の歪さがもっとも印象的に描かれるのは、釈迦がお金を持ってして田中さん(との性行為)の売買を持ちかける以下のシーンです。
お金という、本作においてそれ自体が特異な存在である装置を使うことで、釈迦と田中さんの立場を決定的に逆転するシーンです。
ここまで田中さんは自らを弱者と自称しながらも、釈迦に対して生殺与奪の権利を握っていたり、「そんなに妊娠したいんですか。ああ、中絶だっけ」といい徹底的に馬鹿にして蔑んでいましたが、このシーンでは<買う側 / 買われる側>という、明らかに2人の立場が逆転していると言えます。
もっとも、結局この取引は成立せず、釈迦は子どもを妊娠(もとい中絶)する夢は叶わず、田中さんもお金を得ることなく施設から去りました。
まとめ
バラバラ書いてしまったので、最後に感想・解釈を簡単にまとめます。
ぼくは『ハンチバック』は障がい者を描いた当事者小説だと捉えました。一方で、これは障がい者という弱者からの悲痛な叫びを伝えるだけの小説ではない、と最初に読んだ時に感じました。
もちろん、この内容を読んで「障がい者の方の生活は大変で、バリアフリーの必要性を感じる」という感想を持つ方もいると思います。その感想自体はすごく素直で素敵なもので、読書バリアフリーの遅れなどは、恥ずかしながらぼくも知らなかったことだったので、ぜひ何かのアクションに繋げる必要があるとも思います。
ただ、この物語が当事者の自伝ではなく、一つの小説であると考えた際に、当事者でありつつも俯瞰して、物事を冷笑的に捉えている釈迦という人物がとても気になりました。
釈迦は障がい者ですが、自らの一部恵まれている部分(金銭的な余裕がある、両親の支援が手厚い)を強く自覚的な人なのだろう。だからこそ、彼女はただ弱者として叫ぶのではなく、自分や周りの人物の強い部分・弱い部分を浮き彫りにすることができたのだと思います。
『ハンチバック』は<強者 / 弱者>というそもそもの括りを脱構築しようと試みた作品だ、と言いたいわけではありません。そしてぼくはそのような解釈をしてもいません。
ただ、小説に描かれるせむしは、自分にも周囲にも冷笑的で、その視点を提示してくれたのが『ハンチバック』という小説だったのかなと思います。
今回は、釈迦、そして『ハンチバック』の「冷笑的な視点と自意識」を「お金」と「田中さんとの関係」という2点から、ぼくなりに考えてみました。
備忘
そのほかにも自意識についてもっと考えたかった気持ちもあります。
匿名性が高く、自らを偽ることのできるSNSで、障がい者として発信することの意味など、解釈を膨らませるような仕掛けがいくつもある作品だなと思いました。
あと釈迦が田中さんの生殖器官を口に含むシーンで描かれる、手術のあと。決して安くはないお金で手術をしたにもかかわらず、女性との性的交渉という決定的な場面において、その手術痕が理由にバレるというのも、またどこか皮肉めいているなと思いました。
宗教観に照らして、妊娠・中絶を何かのメタファーとして捉えることもできそうですね。
noteを書いた感想
いろいろ書いてしまったのですが、実は本や映画の感想を人に共有するのがすごく苦手なのです。人が作ったものに対して、外野からとやかくいうのは簡単ですが、そういう行為はクリエイターへのリスペクトが欠けているのでは、と思っていました。
誰もが自由に発信できて、誹謗中傷も生まれるネット社会なので、この考え方が根本的に間違えているとは言い切れません。しかし、最近は少しずつ捉え方が変わってきています。
それはもちろんクリエイターの活動・創作を支援するnoteという会社に身を置いていることも影響しているのかもしれません。「感想を言ってもいいんだ」「作品をどう解釈するのかを考え発信すること自体も創作といっていいんだ」と思えるようになったのは、創作の街の住人ならではの意識の変化だなと思います。
手前味噌ではありますが、昨年12月にnoteが上場した際に日経新聞に広告を出しました。その文章がとても好きだったので、ぼくが最初に「創作」として意識的に発信するこのnoteの最後を、その一文で締めたいと思います。
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