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勉强が得意であることは、僕を生きやすくさせてくれていた。

中学生のころ、不登校だった僕は、学校には通っていなかったけれど、家の中では毎日のように勉强をしていた。
問題集を開き、机に向かってカリカリと。
特にテストの前には1日6時間以上はやっていた記憶がある。
テスト当日の朝には結局学校に行くことが出来なかったのに。

では、どうして、そんなにも勉强をしていたのか。
それはきっと、「勉强が得意である自分」にすがりつきたかったんだと思う。

むかしの僕はとにかく自信が無かった。学校に通うことが出来ず、家族にも多大な迷惑をかけている。家の中に居て何かをしているわけでもない。そんな自分に良いところなんて一つもないと思っていた。
けれど、勉强だけは得意だった。
勉强だけは出来た。

学校に通えていたころには、テストを受ければクラスで必ず1桁の順位。
学年でも相当上位に入っていた。

そんな僕が当時周りにも自慢できるようなことは、勉强しか無かった。
たとえ学校に通っていないとしても、勉强は出来る。そんなちっぽけで脆い自信にすがりついて、不登校である自分を必死に肯定しようとしていた。

でも、僕は同時に、勉强「しか」出来ない自分が大っきらいだった。

勉强が得意だからなんだ。それでも結局学校には通えていないじゃないか。

勉强が得意だからなんだ。それでしんどさが消えるわけでもない。

勉强が得意だからなんだ。他にはなんにも出来ないくせに。

そんなふうに思っていた。

勉强なんか出来なくてもいいから、もっと普通に学校に通いたい。部活を楽しめるようになりたい。この辛さをどうにかしてほしい。

それでも、僕には勉强しか無かったから、親からは「もうやめておきなさい」と言われてもなお、一人で勉强を続けていた。

そんな不登校であった中学生のころからもうすぐ10年。
不登校から復帰してからは6年になる。

これまでの人生を振り返ったとき、当時、勉强だけが得意な自分が嫌いだったけど、「勉强が得意」であったことは、僕を生きやすくさせてくれていたんじゃないかと思う。

勉强が得意だったからこそ、通信制高校に転入した後、塾に通うこともなく希望の大学に入ることが出来た。

勉强が得意だったからこそ、たとえ家にお金が無くとも、授業料免除を取得することで大学に通うことが出来た。

勉强が得意だったからこそ、少ない勉強時間でも良い成績を取ることが出来て、自由に行動する時間が増えた。

勉強が出来るか出来ないかで、人間的な価値が変わったりすることなんて絶対にないとは思うけれども、実際問題、やはり不登校によって勉强についていくことが出来ず、苦労をしたという話も聞く。
そう思えば、勉强が得意だった自分には感謝をしなくちゃいけないなと思う。

けれど、勉強が得意かどうかで生きやすさが変わるだなんて、そんなことでいいのかな?
ここまで散々自分は勉強が得意だと書いてきておきながら、なんだお前はという感じかもしれないが。

言ってもやはり、たかが勉強だ。得意か不得意かなんて、その人の一部分でしかない。
それでも学校では成績で測られる。学歴社会じゃなくなりつつあると言われながらも、学校名で人を判断してしまう人たちもまだまだいる。

自分自身が授業料免除と奨学金を取ることで大学に通うことが出来たからこそ思うけれども、そもそも経済的に苦しいと勉強をすること自体が難しくなる傾向があるというのに、なぜその制度を利用できるかどうかの基準が「学業の成績」なのか。
それっておかしくないか?

「私、頭悪いから。」

そんな言葉と共になにかを諦めるしかなかった人たちにも出会ってきた。
そんなときになんとなくもやもやとした感情が湧き上がってくる。

「勉強が得意である」ということが人生に与える影響なんて、本当は小さいほうが望ましいことなんじゃないだろうか。

#日記 #毎日更新 #不登校 #勉强 #自信 #教育  

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