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ゆるしなさい、という聖書の言葉がつらいと感じる人へ

クリスマスイブに更新することになるのか、と気づいたのは当日朝です。テヘ。
まぁでも、神様の愛を語るときにゆるしを避けては通れないので、このまま書くことにします。

最近、ゆるすことについてクリスチャンとして2つの態度をよく見かけます。
ひとつは「ゆるしなさい」と、流す、気にしない、我慢することを強要する態度。イエス様のように苦しめと言うかのようです。
もうひとつは「ゆるさなくていい」と、傷ついた心をかばう態度。7の70倍もゆるしなさいとおっしゃったイエス様の言葉を無視しても良いと言うかのようです。

どちらも間違っています。
最近私はこの2つの態度が気になっています。ひとつは、苦しんでも我慢してもとにかく盲目的に言われた通りにしろという態度。もうひとつは、無理しなくていい。つらいなら聖書の言葉に従わなくていい、あるいは別の読み方をして従わなくていいように考えようとする態度。
どちらにも共通しているのは、神様の愛を信じていないことです。

神様がゆるしなさい、とおっしゃるならば、それはゆるすことによって私たち人間が満たされ幸せになるからです。神様は、私たちが苦しむことを良しとされません。もし、神様が私たちが苦しむことを望まれるとしたら、苦しみを喜ぶ愛が「私たち人間の側に」ある時だけです。それ以外の苦しみは全て、取り除かれるべきです。苦しみには理由があり、原因は私たちの内側にある罪が引き寄せるからです。
そうでない苦しみは、愛のためです。
私は、自分が発達障害であることによって、時々苦しみます。その苦しみには、発達障害である自分に対して正しくない扱いをする罪が原因である苦しみが混ざります。発達障害によって「困ること」と「苦しむ」ことは別です。私は、発達障害であることによって苦しむ必要はないのです。
しかし、自分が発達障害であることによって、発達障害に苦しむ人たちをより正しく愛することができます。時に、あえて共に石を投げられる側に立つこともあるでしょう。この苦しみは、愛によってあえて受ける苦しみです。でも、この苦しみは、選ぶ自由があり、苦しみを選ばなくても罪ではありません。この苦しみは、ゆるした先にあるもので、ゆるすかどうかという場所にいる人には関係がない苦しみです。

この前提で、ゆるすことによって満たされて幸せになれないとしたら、「ゆるし方」が間違っているのです。

ゆるしはその行動を許可するのではない

例えば、差別をする人をゆるす、という場合。それは、差別をし続けても良いと許可をすることではありません。
しかし、相手には差別をする自由があります。私たちには、間違いを犯す権利も罪を犯す権利もあります。ただし、その結果を拒否する権利はありません。

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