「こんなこと書く意味ある?」って自分では思うことが意外と他者の役に立ったりする
ワンノブ師がついにSNSに参入した。
私達より世代が上で、デジタルネイティブではない師は、私達がやらないキモい使い方をしてしまっている。
「え、そんなことも知らなかったの」ということを、失敗しながら学んでいる。
それ自体は別に良い。「おじさんなのにSNSはじめて偉い」とも言える。
ただ、その失敗→学びの過程を、「さも大層なことのようにわざと難しく言っているな?」と、私は感じてはじめてしまった。
そしたら他の分野のことについてもそう見えてきた。
「今まで師はいろんなところ(主に紙媒体)で文章を書いてきたけど、簡単なこと、他の人ならナチュラルに知ってることを、さも大発見のようにわざと難しく書いて、偉そうにしてるだけなのでは?」
そう思うと師の文章が全体的にリスペクトできなくなってしまった。
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たとえば経営について。
師はある日本語系の業務についてアルバイトを雇ったのだが、
「その業務量だったらアルバイト要らんよな? しかもベトナム人? いくら時給が安いとは言え、教えるの大変では? 少ない業務量なんだしネイティブの自分がやったほうが十倍楽では?」
と私が薄々思っていたら、やっぱりアルバイトを雇うのをやめた。
その過程も、なんか、大層な感じで「俺の仕事流儀~!」って感じで、書いていた。
「素人の私でもわかることなのに……」と、だいぶ幻滅してしまった。
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ここまで書いて、私は思い当たることがあった。
自分のことだ。
私がこうやって書いてるレヴェリー・レイレイの記事も、わざわざ言語化せずとも幼稚園の時から身を持って知ってて、「何をわざわざ、知れきったことを、何万字も書いてるの?」と思う人が、絶対いるのだ。
私自身、
「これ、私にとっては大事な発見だけど、誰かにとっては当たり前のことだよな……これ、書く意味あるのか?」
と思うことがたびたびある。
でも、私は自分のために書いているし、自分に似た人に流れ弾的に当たって「役に立つ!ありがとう!」と言ってもらえることが、人生で何度もあったから、相変わらず書いている。
それで良いと思っている。
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みんな、他の人には余裕で解ける問題に行き詰まって、何年も立ち止まったり,試行錯誤してるつもりが全く同じ試行を連発してることって、よくある。
もちろん私も。
だからと言って発信の手を止める必要はない。
やっと抜け出せた解放の喜びや、自分としてはコペルニクス的に感じられた解決策を、パッションのままに書き殴って良いに決まっている。
似たような人、ちょっと昔の自分みたいな人に、必ず役に立つから。
……となると、師のたどたどしいSNSも、誰かの役に立っているのだと思う。
私にとっては「要らね」なだけで。
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とかなんとか思いながら師のSNSを見ていたら、なんだか爆速で結果を出してきた。コンテンツが……爆速で……売れ始めている……why……⁉
やっぱり、私にとっては「要らね」と思った面が多い発信だったが、「だがそれがいい」と思う人も一定数いるのだ。
具体的に私が「要らね」と思った面は
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