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街に行っても余計な買い物をしない方法~恋愛と所有欲の話

みなさん、100円の有料note買っていただけましたか。

インターネットに自分の恋愛(とセックス)の話は書かないものだという20世紀のタブーを静かに破ってみましたよ。もう平成も終わるしね。


さて、今回は「好き」と「所有欲」の話です。

最近、ミニマリストの考え方を学んでいる。

ミニマリストの定義はいろいろあるけど、私の感触だと「最小限の持ち物(や情報や行動範囲等)で暮らすことで、余計な選択肢を省き、必要なことに集中することを信条としている人」って感じだ。

「いつか必要になるかも」じゃなくて、「今要らないものは要らない」。

「あれば便利」じゃなくて、「無きゃ無いで平気」の身軽さを選ぶ。

「欲しい」じゃなくて「要る」ものだけを峻別する。

別にミニマリストの熟練度って単にモノの少なさだけで測れるものじゃないけど、ものすごい人だと、冷蔵庫も無い、ゴミ箱も無い(!?)。刑務所みたいな部屋に住んでたりする。


この思想が自分に流れ込んできてから考えたことの一つに、「あ、所有欲って虚しいな」ということがありました。


たとえば、この前、割と久しぶりにおしゃれタウン表参道に行ったのですが、

「うわあ世界にはこんなに素敵なものがたくさんあるのか中野区や杉並区では一度も見たことが無いぞ?!」とぶったまげるほどに、おしゃれなもの素敵なものがキラキラ輝きながらひしめいていました。

特に私は、ナイキとかアディダスとかの、めちゃ良い素材なのにそんなに高くなくて機能美とデザインを兼ね備えたかっこいいウェアとか靴とかを見るのが結構好きで、ついつい買いそうになってしまうのですが、そんなに運動をしないので、着る機会もないまま眠らせたものたちも今まで数多くあったことを思い出し、なんとか踏みとどまるのでした。他にもハイブランドの服とかマリメッコとか(柄フェチ)、美しくて質の高いものが沢山。

そういうものを見ると、値札を見た後に「わあ自分じゃ買えない」とわかり、自分の経済状況や、こういうものを買っても見せびらかす場のないしみったれたライフスタイルに思いをはせて、無駄に落ち込んだりするのですが。(だから私「デパートに行くと鬱になる」ってよく言ってた)。

でも、ミニマリズムを学んだ後の今回は、とある画期的なマインドセットを自らに施すことによって、街歩きを楽しく割り切ることに成功した。

そのマインドセットとはすなわち、「街は巨大な博物館」。

今、見ることをよく味わって、心の底から楽しみ、それでおしまいにする。

これらはそもそも私が所有できる次元にあるものではない、今目に入れて楽しむしかない、と、割り切ること。

「もしかしたらこれを所有できるかもしれない」というファンタジーに振り回され、値札を見たり、財布と相談したりする時間て、マジ無駄だなと思います。

本当に必要なものを吟味する時間は有意義だけど、買うものも特に定めずに街をうろついてそういうファンタジーによろめく時間はない。それならば、もともとこの街に私が所有できるものはない、と思って、博物館のつもりでウィンドーショッピングを楽しんだ方がよほど有意義だ、というのが私の最近の気分です。


……ま、こんな言い方じゃわかんないよね。

じゃあ例えば、私が、うーん、ハリー・ウィンストンに連れて行かれたとしますよね。全部数十万~百万円以上するから、買えないですよね。だから、値札を見ないで、純粋にその美しさを見学して、つつましく退店しますよね。

じゃあ次にティファニーに連れて行かれたとしますよね。まあ大学生でも頑張れば買える、2~3万円のものもありますよね。私も買おうと思えば買える。それで、ちょっとかわいいやつとかあったら、値札みて「あー微妙~買おうと思えば買える額~」とか、言い出すんですよ。

でも私そもそもジュエリー要らないんですよ。

だとしたらハリーウィンストンもティファニーも同じ見方でいいはずなの。だって、要らないんだもん。博物館のように、純粋に美しさを鑑賞してればいいの。ティファニーで値札見て一喜一憂する必要ないの。

もし本当にジュエリーが必要な時が訪れたら、何店もめぐって財布と相談して天秤にかけるのが、正しいあり方だと思う。

しかしね、ここで、ミニマリストの掲げる最も美しい行動指針のひとつをあげます。

すなわち「欲しいものは値札を見ずに買え」。

どういうことかというと、「あ、この値段なら買えるかも」と思って買うものは、本当は必要じゃないんです。「いくらでも構わないから、これが欲しい」と望むものが、あなたが真に望むものなのです。

極論するなら

・「博物館モード」(不要なものを見る時)

・「狙い撃ちモード」(必要なものを買う時。値札を見ずに買う)

の2モードしか必要無い。そしてどちらにおいても、値札なんか見る必要ない。

ま、私はモノの値段自体に興味があるし、ブランド物と普通の品が混在しているリサイクルショップで自分の目を試すために、値段のアタリをつけてから値札を見る、という遊びはよくしますけど。

とにかくティファニーで値札チラチラみるモードというのは、本質的に要らない。


さて、こういうミニマリストの考え方が流れ込んだ最近の頭で、ふと、「恋愛のほとんども所有欲にドライヴされてるんだな」と、思いました。

好きな人といる時間が楽しいなら、一緒にいる時間を精一杯味わうだけで良いのに、なんでレジ行って「これください」って言ってバーコードをピッと打ち合わないといけないのって。それ所有欲じゃん

人間が人間を所有なんてできない。たとえレシートを貰っても本質的に紙切れ。

気付いた、人間は、博物館だった。

「あ、この人のこんなところも面白い、素敵だ、きれいだ、ふーん」って眺めるしかない。どの展示品も持ち帰ることはできない。

好き、とか、付き合う、とか、しょせん言葉、空疎なレシートだ。

言葉は抽象物だから、家に持って帰ってにやにやしながらなでまわすことが出来る。でも身体は、精神は、家に持って帰ってにやにやしながらなでまわすことが出来ない。今目の前にいるその人を今味わうしかない。

思い出は溜まる、履歴は溜まる。何度も同じ博物館に行って楽しむ、その履歴の積み重ねだけが真実なのに、なんで、空疎なレシートを求めちゃうんだろうな~~~。(まあ、レシートが出力されるに至るスイートな思い出があるとしたら、その思い出には紛れもなく思い出となるんだけど)

ましてや「この人は購入できるだろうか(私を購入してくれるだろうか)、レシート出してくれるだろうか(レシート受け取ってくれるだろうか)」と勘ぐって、自分や相手の財布事情を窺うというのは、なんてしみったれた、コスい行為だと思う


ピダハンという、アマゾンの奥地に住む300人ほどの少数民族は、結婚式をしない。男女が一緒に住み始めたらなんとなく夫婦扱いされ、配偶者が数日家を空けてよその男/女とジャングルに消え、帰って来た時にその相手と住みだしたら、それが別れ。

彼らが結婚式をしないのは、神がいないから、神がいない理由は、今目の前に見えるものしか信じないから。


ピダハンはミニマリストだと思った。次はそのことについて書きたいなと思う。

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