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「親切」は凡人の行為。「親切」をするな。天才であれ

今週から、自分を天才扱いして生きることにした。

「天才だから、誰でもできる仕事は受けない」
「天才だから、ちゃんと自己投資する」
「天才だから、自分の才能と時間とお金を大事にする」

こんな感じ。

これは別に、必ずしも高飛車や図々しさを意味しない。
「私は天才だから些末なことにはこだわらない。君が好きに決めろ」
これは大らかさに映ることもあるだろうし、
「私は天才だからけちけちしない」
これは大盤振る舞い、気前の良さ、ひょっとしたら「親切」に映ることもあるだろう。

しかし「親切」なんか絶対にしないぞ。

あらゆるリソースを、まずは自分のために有効活用する。
その上で、ちょびっと余ったリソースは、捨てるの勿体無いからまあお前にやるよ、社会にトリクルダウンしてもいいぞ。

そんなテンション。

返報性の原理という言葉が嫌いである。

(というか厳密にはこの言葉には何の罪もないんだけど、この言葉をモットーにしてセコセコと「親切」をして見返りを待つという行為は、なんか好きじゃない。それって「試食を配って買わせる」のと一緒じゃん。ビジネスならともかく、道徳的にそれをやろうとするのは、ゲスくないか。)

同じく「人に親切にしなさい」「情けは人の為ならず」「義理がある」「恩を返す」とかも全然好きじゃない。
堅苦しすぎる。

「親切」は道徳的に強いられるものでもない。というか、意識的にするものですらない。
ほぼ無意識に、余ってるリソースを周囲にこぼれさすもの。
ていうか勝手にこぼれちゃうもの。

ちょっと体力がある人が、そうじゃない人――女、子供、老人、病人など――の代わりに、ドア開けたり荷物を持ってあげる。1秒後にはケロッと忘れる。それぐらいでいい。

「才能、適性、向いているもの、有り余っているもの」
かつ、
「他人にちょっとあげても痛くもかゆくもないし、あげたことすら忘れているもの」。
でも、
「他人にとってはすごく貴重で、ありがたがってもらえるもの」。

それをあげることで、この世にお得な不等価交換が生じること。

これが親切。


もし、「ちょっと無理してるな」「こんなに親切にしたんだから見返りが欲しいな」と1mmでも思っちゃうなら、その行為はする必要がない。

キリストが、趣味で石をパンに変えている。
別に誰のためでもなく、ただ単純にその作業が面白いので、楽しくやっている。
すると「俺の石もパンに変えてくれ」という無銭の輩が湧いてくる。
そいつらの石はうんこに変えてやる(その方が面白いから)。
でも「石→パンshow」を見るオーディエンスはどんどん増えていき、投げ銭バンバン、「パンを買わせてください」という人も現れ、市場価格よりだいぶ高い値段を払ってくれる。
「石を猫に変えてくれたらあなたの教会を建てます」という依頼も来る。
勝手にまとめ動画や語録botが出来てバズって、なんか知らんが勝手に有名になる……

こんな感じが理想ですね。

有名になっても相変わらずキリストは石をパンに変える作業をやり続けてる。単に好きだから。
ついやりすぎちゃって家がパンだらけになっちゃった時は、腐らすのも勿体無いので、近所にあげる。

あるいは猫。
別に媚びてるわけでもなく努力してるわけでもないんだけど、生まれながらに超かわいい。
超かわいいことによって人間に愛されて、エサをもらったり、温かい寝床をもらったりしている。
猫は、気まぐれに人間にすりついたり、すりつかなかったりしてるけど、別にエサが欲しくてそうしてるわけでもない。そうしたいからそうしてるだけ。
そして相変わらず、何の自覚も無しにかわいいをダダ漏れさせている。

「猫? キリスト? そんなの絶対無理」
「一部の人にしかできないよ」
と思う? 

そう思っているとそうなる。

「私は天才だ」
「私は石をパンには変えられないが、私にだって「石→パン」的才能はある。絶対にある。」

と思っていると、そうなる。


というか、誰にだって「石→パン」的才能はあるんだよ。これはただの事実。

よく分からん常識とか道徳とかに目を曇らせずに普通に生きてれば、『他人の「石→パン」的才能を見出す才能』がある人が、見出だしてくれる。あるいは、神の采配としか思えない事象が起きて、見つかる。

もしそのことを疑うなら、渋澤怜よ、私の知人の絵描きと映画女優を思い出せ。

自分の才能は安売りしないし、かといって高く値付けすれば良いものでもない。
というかそもそも非売品である。
売るのはもちろんOKだが、値付けでしくじると、苦しくなることがある。

値段をつけるのは、無銭であやかろうとする奴、「親切」の強要者をブロックするため。
精神の健康さを保つために値付けするんだから、値付けによって心を苦しめられたら本末転倒だ。

2021年のはじめの私は、今年のスローガンを「教祖感」に設定した。
べつに、宗教を開くとかお布施をせしめるという意味ではない。

「なんかいつも前向きなこと言ってるし、言ってたら本当に叶っちゃう」人でありたいし、周りもつられてそうなっちゃえばいい。

自分が自分のためにノリでやってることが、ついでに周囲にダダ漏れして、ありがたがられて面白がられたい。

という意味だ。

きっとその時の私は、神秘的で威厳がある教祖ではなく、なんか無邪気でちゃきちゃきしてのびのびしててなんなら無礼で、でも無礼が許されるつうか親しみと解釈して相手も喜んじゃう治外法権の子供のような存在で、いつも楽しくポジティブで前向きで、突拍子の無いことを思いついてはすぐに口に出し、ついでに叶えちゃって、一見無力な感じに見えるというか人に頼ることに躊躇が無く、そして周りも楽しそうについつい助けてくれるのだ。


2021年はそうなる。そうする。

(実際、2021年のはじめの2ヶ月の家賃はゼロだった。あの辺から、私を面白がる人がもっと集まったりし始めた。)

自分の文才の使い方がやっとわかった。
私は自分への呪文を書きことができる。
今までは結構な量の負の呪文を書いてしまった。

これからは正の呪文だけを書く。



渋澤怜(@RayShibusawa

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2021.11追記
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