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page 3『 曖昧な色の落とし物 』 ノンフィクション

第2章 「 おかしなバランス 」

 今夜は少し早めに眠りについた息子だった。夫はまだ会社から帰ってくるような時間ではない。
私はこの後の時間を久々にのんびり過ごそうと大好きなコーヒーを淹れ、ソファに腰を下ろした。

 確かに引っ越し後の戸惑いや不安は多すぎるが、この場所での家族3人の暮らしは今後もしばらく続いていくこと。これが現実だった。

 私は香ばしいほろ苦さのコーヒーをゆっくりと口へと運び、ひと息つきながら
「快適で楽しく、ゆとりのある生活」とは何か、そのためにできることはないかと考え始めた。とても意外だったが、落ち着いていざ考え始めると色々と出てくるものであれもこれもと次から次へと試してみたい事柄が出てきてしまい、何から始めてみようかと私は楽しささえ感じていた。

先ずは食材の宅配をCOOPにお願いしてみよう。

事前に1週間分の献立をまとめて立てて食材の注文をし、足りないものがあればスーパーで調達しよう。そうすればこまめな買い物へは行かなくても済むし、自由な時間も今より増える。
栄養バランスの良い食事を考えることも、空いた時間に作り置きも可能だ。
 息子や私の体調が悪い時も病院帰りに無理してスーパーへ寄らなくていい。
急な予定にも左右されることがないから、ごはんの心配もいらない。おまけに添加物の少ないものや自然なものが沢山揃っているではないか。

あとは衣替えと外部のクリーニングをなくしたい

まだウォークインクローゼットにかかっていない、段ボールに入ったままの最近はあまり着ていない衣服は纏めてリサイクルショップに引き取ってもらって、先ずは必要なものだけにしてみよう。
 今後はなるべくオールシーズン着られる服やおうちクリーニングのできるものを持てば、衣替えなし、クリーニングなしで良さそうだ。
ファッション大好きな私が出来るかは分からないけど...とりあえずやってみよう。

パジャマも変えよう。

ロングワンピースのようなそのまま外へ出てもおかしくなくて、ゆったりとくつろげるものにしてしまおう。急いでいる時に今の状態だと直ぐに外へ出られないから、着替えていなくても恥ずかしくない出かけられるものに。

食器を整理しよう。

お客様用のお気に入りの食器を普段から使おう。そうしたらお客様用は持たなくていいし、枚数も減る。使用していない不要な食器は手放そう。

家電を見直そう。

用途が被っている家電の見直しと今後はメンテナンスの大変な家電はなるべく増やさないようにしよう。そうしたらメンテナンスの掃除も減る。

バッグの置き場を決めよう。

母子手帳や診察券、時計等出かける時に必要なことが多いものはクロークにひとまとめにしておこう。


私はひとり、コーヒーを楽しみながらそのようなことを思いついていた。きっと引っ越し後の戸惑いや不安から「衣食住•物の管理•家事をもっと
らくにシンプルにして、時間や心のゆとりを持ちたい。」
常々そう思っていたのだろう。
先ずは身の回りを整え、今の私達に合った形での更新をしていこうという結論へと至っていた。

そのあたりまでの記憶ははっきりしていた。それから先は、知らず知らずのうちにどこかでうたた寝を始めてしまっていたようだ。

「ガチャン!」

「うん!?」
突然何かの音が響き、驚いた私はパッと目を開ける。少しするとリビングの扉が開き、夫が部屋へと入ってきた。あの音は夫が帰宅して玄関ドアを開けた音だったのだ。

「ただいまー」

「お、おかえり...  びっくりした...」

まだうまく状況が飲み込めず、きょとんとした顔で私は言った。もう夫の帰宅時間だなんて、随分と長い間眠り続けてしまっていたようだ。
カフェイン効果は私にはなかったようである。


翌朝のこと。
私がリビングへ向かうと、既に太陽の光が建物の東側全体に当たり明るく照らし出されている様子が見えた。今日はきっとよい天気なのだろう。私はキッチンへと向かい、電気ケトルでお湯を沸かし始めた。

ここ数年、朝の空を眺めながらゆっくりと白湯を飲む時間が私はずっと好きだった。これは朝食作りの前の私の密かなお気に入りの習慣でもあり、また体調を整えるためとしても役立っていた。

窓の外に東から南そして西へとどこまでも広がる空。東の空は淡いピンクやオレンジがかったグラデーション。南から西は、淡いグレーやブルーのような色が重なり合うグラデーションの空だ。日によって全く異なる印象を与えてくれる空が魅力的で昔から好きなのだ。
 見る人の気分や感情そして心の状態までをも反映しているように感じられ、目の前の空がどんなに明るいものであっても、心の状態が不安定であれば明るい空の印象も不安定に...
私にはそう見えてしまう気がしていた。
 人間の見るという行為が実は目だけでおこなっていることではなく、脳を通して初めて物が見える状態となることもなんだかとても納得のいくものだ。きっと空を見るとか、景色を見るという行動は自分の心の状態を知るにはもってこいのことなのだろう。

 今朝はお気に入りの習慣をまた再開させようと、私は少しだけ早起きをしていた。
リビングから見える外の景色はやはりまだ馴染みのあるものではないが、次第に見慣れていくのだろう。私は懸命に窓から空を見上げてみる。この窓は大きいが、ここから空一面を見上げるのは少し難しいようだ。マンションとは違い、空はどこまでもというようには見えない。そして電柱や電線なども邪魔をしているようだった。
 私は気分を変え、お気に入りのマグカップを手に取りお湯を注ぐ。そしてカップを両手ではさんで持ち、手を暖めながら外を眺めゆっくりと白湯を飲んでみる。心地よい温かさが喉元から食道へとスーッとゆっくりと流れ、胃の辺りまで下りてくるのがよくわかった。

久しぶりの感覚だ。
引っ越し後の慌ただしい毎日に紛れ、空を見ながら白湯を飲むという朝の大好きな習慣を私はすっかりと忘れてしまっていたようだ。

今日からはしばらくの間、空ではなく景色になりそうだが...まぁそれでもいい。

こちらに来てからインフルエンザにも風邪にも負け随分と弱くなってしまったが、体調を整えるためにもまた今日からこの習慣を続けていくことにしよう。そんなことを私は考えていた。

そして今朝はその後、意外なことから嬉しい発見をすることとなった。

私は食パンをトーストする準備をしていた。
普段はひっくり返さなくて済むトースターを使っているが、今朝は時間にも余裕がある。
そこで私はせっかくだからといつものトースターではなく、電子レンジのオーブン•グリル機能を使って朝のトーストを焼いてみることにした。
この電子レンジのグリルは、途中でパンを裏返しにしなければならない機能のもので時間に余裕がある時しか使っていない。

片面のトーストが始まり、数分後電子レンジのグリルはパンを裏返すために自動で一時停止していた。そんな中、おそらく私は何か他のことに夢中になってしまっていたのだろう...
 一時止まっていたグリルのパンを裏返さず、そのまま続きのスタートボタンを押してしまったようだ。電子レンジを開け、焼き上がったトーストを取り出してみると、なんと上面の片面しか焼けていないトーストが出来上がっていた。

しまった...裏返すの忘れちゃった

その後ひと口食べて、夫と私は驚いてしまった。

このトーストのほうが断然美味しい。

2人で顔を見合わせ、パンの下面を確認したが
何度見ても温められただけのただの焼けていないパンだった。

外側カリッと内側ふわふわトーストではなく、
「上面カリッとサクッ、
下面もちもちふわふわトースト」の完成だった。


トーストを口へ入れた時の香ばしいカリッサクッとした食感の上面。そして、もちもちふわふわのしっとり柔らかい食感の下面。
いつも食べているトーストに比べ、食感のコントラストが大きく感じられ、温かいもちもち感が堪らない。下面がトーストされていないことで、パンくずもほとんどぽろぽろしてこない。
このトーストはこの時から、我が家のトーストとなった。

この日を境にトーストの裏返しはなくなり、同時にトースターも手放そうと私は決めていた。電子レンジの機能と用途が被っており、さらに両面焼きのトースターではあの美味しいトーストを焼くことが出来ないから。そういう理由からである。

この後も電子レンジの買い替え時がくると、我が家はトーストの裏返しが必要なタイプの電子レンジをわざわざ選んで購入している程だ。
 トースターを手放した後のキッチンはシンプルですっきりと心地の良いものとなり「身の回りを整えること」は私の中でプラスの印象となっていた。
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