まだ二項対立で消耗してるの?脱構築してなめらかに生きるには
はじめまして。マーケティング支援会社アナグラムでチームリーダーをしているRayと申します。今回はFeedforce Group Advent Calendar 2022の14日目。昨日はえーちゃんさんが社内のコミュニティ文化について熱く語ってくれました(巻き込むではなく惹き込む、至言ですね!)
さて、本記事のテーマは「二項対立」と「なめらか」です。いきなり言われてもなんのこっちゃかと思いますので、先に簡単な要約を用意します。
なお、本記事のサムネは画像生成AI Midjourneyで「人々が二項対立を倒し、よりなめらかな社会へ移行する、楽しそう」を入力した結果生まれたもの。なかなかにカオスです。
本記事もカオス的な要素が多分に含まれているかと思いますので、こどもの遊びのようなものと捉えてもらえると嬉しいです。「こいつ、難しいこと色々言ってるけど情報を寄せ集めてるだけじゃん」、あわよくば「オリジナリティ皆無。画像生成AIみたいだな」なんてマウントをとってもらえると非常に助かります。
①ムズかしい言葉を定義する:脱構築
さて、頻出するであろう2つの言葉を先に定義します。最初は「へぇ」くらいでOKです。
簡単にいえば、脱構築とは二項対立の解体です。男/女、善/悪、仕事/遊びなど僕らの毎日は二項対立にあふれています。しかし、「男らしい人とそうでない人」、「子供っぽい人とそうでない人」という言葉から見られるように、二項対立的な考えには異質なもの・弱いものを排除する意味合いが隠れています(大人っぽい=良い、子供っぽい=悪いなど)。ここに疑いをかけ、対立関係を崩すのが脱構築です。
なお、本来であれば”さらに新たな枠組みに再構築する”までが脱構築といえますが、現時点では「日常の隠れた二項対立に気づく」「その二項対立を疑い、関係を崩してみる」=脱構築という解釈で大丈夫です。より詳しくは後述します。
②ムズかしい言葉を定義する:なめらか
脱構築が分かれば後はもう簡単です。ここでは鈴木健さん著の『なめらかな社会とその敵』を元に話します。
"なめらか"であるとは、「複雑性を受け入れる」ことを意味します。
書籍では分人民主主義や伝播投資型貨幣PICSYの紹介を通して「なめらかな社会」を実現する手段について話していますが、本記事でみなさんに提案したいのは「なめらかな社会」ではなく「なめらかな(私的)生活」になります。ですので、勝手ながらそれら議論はここでは一旦割愛し、「"なめらか"かそうでないか(ステップかフラットか)」だけに着目します。
ここではわかりやすくするために、文献からグラフを拝借します。
上記はシグモイド関数というものですが、あまり難しく考えなくて大丈夫です。「λ(ラムダ)」の絶対値を大きくすると①ステップ関数(カクカク)に漸近し、ゼロにすると②フラットな関数(たいら)になる。ただそれだけです。
僕らは二元論(=ステップ)で物事を考えがち。でも、世の中はそんなにシンプルじゃないですよね。善悪の基準は文化によって異なるし、子供と大人に明確な区切りはありません。性別・人種・国籍なんてもっとややこしいですが、それでも僕は「男性は」とか使ってしまう。でも当然ですよね、だって世界は複雑なので、多少単純化して物事を進めないと生活は成り立たないのです。
逆に、完全に差異をなくすこと、フラットに二項対立なしに考えることは生活の基盤を壊してしまいます。だけど、脱構築して日々の生活の裏にある隠れた前提に疑いをかけることはできる。「失敗しちゃいけない」とか「幸せじゃなきゃいけない」とかいう自分を縛り付けてる暗黙のルールを見つめ直し、対立関係を崩すことができる。
成功/失敗の境界線、仕事/遊びの境界線、自己/他者の境界線。これらが絶対的でないと再認識する(=複雑性を受け入れる)ことで心がラクになることってあると思うんです。脱構築を通してなめらかな生活を手に入れる、これが本記事のテーマです。
では、具体的にはどのようにすれば脱構築できるのでしょうか?ここまで来ればもう大丈夫です。とあるシンプルなフレームワークを通して、なめらかに生きるヒントを見ていきましょう。
"折り曲げの法則"で脱構築してみる
僕が尊敬する著述家の一人でもある細谷功さん。著書『「具体⇔抽象」トレーニング』では、折り曲げの法則というフレームワークを紹介しています。
折り曲げの法則
例として、「成功」と「失敗」を見ていきましょう。一般に真逆と言われるこの二つの概念ですが、これらを直線で結び、真ん中に「成功でも失敗でもない」中間地点を設けて、"折り曲げ"ます。
するとどうでしょう。対極にあった「成功」と「失敗」が同じ場所で重なり、逆側にはどちらでもない(=何もしない)という構図が生まれます。結果として、「変化を起こす」と「何もしない」という新たな構造が現れ、対立していたはずの二つが実は紙一重の関係だったことがわかります。
実際、起業家のように常にチャレンジが求められる立場にある人は「やるかやらないか」が主眼にあることが多いですよね。成功とはあくまでも失敗の延長線上にあるのであり、「成功か失敗か」の二律背反ではなく、「成功するまで(失敗も含め)挑戦を続ける」という考え方です。
一見二項対立に見える2つの概念から、より上位の抽象概念を見出して両者の関係性をなめらかにしてみる。お気づきの方もいるでしょうが、これは冒頭で話した「対立構造を崩す→さらに新たな枠組みに再構築する」=脱構築しているといえますね。
このように物事を解釈すると、今までとは全く違った景色が見えるようになります。書籍では他にも”折り曲げ”例がありましたが、特に新鮮だった2つを皆さんにも紹介します。
※著者である細谷功さんご本人が書かれているnoteも、ぜひお読み下さい!
さて、ある程度仕組みがわかったところで他にも崩せる二項対立はないでしょうか?次は僕が遊び半分でやってみた脱構築にお付き合い頂けると嬉しいです。正解はありませんので、ぜひ皆さんも一緒に考えてみてください。
CASE 1:仕事と遊び
まずは身近なケースから見てみましょう。仕事と遊び、折り曲げるとどうなるのでしょうか?考えてみてくださいね。
仕事と遊びが紙一重の状態。僕は「活動的である」、という括りができると思いました。
そもそも仕事と遊びってキレイに分けられるのでしょうか?例えば、仕事に遊び的な要素があったり、遊びにも仕事的な要素があると考えることはできないでしょうか。職場の雑談がめちゃくちゃいいビジネスアイディアにつながったり、趣味のスキルを上げるためにはやりたくない反復練習を延々と行うこともありますよね。
また、経営者やYouTuberの話なんか聞いてると「本気で遊んでたら仕事になった」、なんてこともあります。そんな彼らの仕事と遊びの境界線はなめらかで、”精神活動”という括りでは全く区別していないかもしれません。
もちろん、これは一部の人の話であって、万人がそうすべきというわけではありません(僕自身、「仕事があるから遊べない…」と二項対立的に考えることがよくあります)。しかし、仕事で遊ぶこともできるし、遊びで仕事モードに入って自分を高めることもできる。境界線をなめらかにしてみると、案外自分が一番避けたいのは何の活動もしないことなのかも、と考えることもできます。
CASE 2:幸福と不幸
次はちょっと難しめ。「幸せになりたい」「不幸は嫌だ」、誰もがそう思うことでしょう。ですが、これも実は紙一重では?という前提で脱構築してみると、新たな世界観が見えてきます。
幸福と不幸を同じ位置に折り曲げると、共通点はなんでしょうか?
僕は「程度である」点だと考えました。
幸せも不幸も、どちらも「特定の状態(=程度)」を表します。幸せのカタチは人それぞれですので全ての人には当てはまりませんが、あくまでも例として下記を考えてみましょう。
友達がいる ⇔ 友達がいない
年収が高い ⇔ 年収が低い
恋人と付き合う ⇔ 恋人と別れる
友達がいるから幸せ、友達がいないから不幸など。全く異なる二つに見えますが、俯瞰してみると幸せも不幸せも「状況次第で特定の状態に達する」と言う意味では共通しているのではないでしょうか?
反対に、「程度でない」状態とは、何もロボットのように感情を捨てることを指すわけではありません。わかりやすく言い換えると、「感情の程度が状況に左右されにくい」と言い換えることができます。例えば、恋人と喧嘩別れしたとしても、恋人の有無に自分の幸せを依拠させていなければ(多少は落ち込むかもしれませんが)不幸になることはありません。僕らは出来事に対しての反応の取り方を選ぶことができるのです。
同じように、案外一番幸せそうにしている人こそ、あまり幸せ・不幸せについて考えていないということも真理ではないでしょうか?以前、牧師をやっているアメリカ人の友人に「Are you happy?」と聞いたところ、「I think I'm more at peace(どちらかというと平穏かな)」という回答を得て衝撃を受けたことがあります。
話が長くなりましたが、「程度である」という括りで見れば、正反対に見えた幸福と不幸も実は紙一重だと気づくことができます。その上で対概念である「程度でない」状態から、自分にとって良い状態を保つためのヒントを得ることができるかもしれません。
CASE 3:日本人と外国人
ワールドカップもありましたし、最後に国の話をしてみましょう。日本人と外国人を折り曲げるとどうなるのでしょうか?
アイデンティティが国/人種に依拠する・しないという分け方ができると考えました。
そもそも、◯◯人であるという括りは人種・言語・国家など複雑な境界線が複雑に絡み合った上でできています。むしろ、北は北海道から南は沖縄までを同じ"日本"という国でまとめられて、なおかつその国に住んでいる人をまとめて”日本人である"と括れることの方が凄いんです。
もちろんこれも善悪の話ではありませんが、その括り(国家依存的なアイデンティティ)に窮屈さを感じる人もいると思っています。先に挙げた『なめらかな社会とその敵』では、なめらかなアイデンティティについての記載があります。
なめらかなアイデンティティで生活できれば、誰しもが複数の国籍を持ったり、複数の会社に所属したり、さらには複数の個人になれる。夢物語に聞こえるかもしれませんが、Twitterで本垢・サブ垢・裏垢を使い分けているそこのあなた、既に大変なめらかです。
おわりに:世界はステップでもないし、フラットでもない
本記事を書くに至った理由は、恐らく自分でも無意識的に「◯◯でなければならない/ではいけない」という価値観を自分にずっと押し付けてきたからだと思います。
仕事で結果を出さなければならない
決めたことは最後までやり通さなきゃいけない
男らしくないといけない
でも、色々な本を読む中で、自分を苦しめている前提を少し揺さぶるだけでいつでもラクになれることに気付いたんですね。だからこそ、キマリとかルールに苦しんでいる全ての人に言いたい。「えっ、まだ二項対立で消耗してるの?」と。
もちろん、二項対立的に世界を見ることはシンプルだし、白と黒が明確だと安心します。でも、「白になりなさい」とか「黒は良くない」とか、そういうステップ的な世界ではジョーシキばっか押し付けられて窮屈です。
逆に「グレーだけ」のフラットな世界では差異や個性がすべて排除され、「私とあなたは同じだよね」という暴力が発生する。じゃあどうするか?というと、脱構築を通してつねに新たな意味や可能性を獲得し、なめらかな価値観を取り入れることが大切になってくるんですね。
時には仕事で遊んでいい、時には幸福・不幸いずれかでもなく平穏でいい、時には日本人かつ外国人でもいい。二元論的な毎日ではなく、なめらかな毎日を過ごすことで、きっと日常を楽しくすることができるのではないでしょうか。
本記事が皆さんの生活にとって、何かしらのヒントになってくれれば幸いです。また、こんなカロリー高めの文章でもよければ、いいねとフォローをしていただけると大変励みになります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
※明日のAdvent Calendarではアナグラム田中さんがRPGから学ぶ運用型広告のキャリア観について書いてくれましたよ。併せてどうぞ!
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