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16 無理して子育てを頑張っていた理由①

なぜ私は我慢や無理をしてまで、頑張って良い子育てをしようとしていたのかというと、もちろん娘たちを愛していたからなのですが、純粋な愛だけではなく、娘達を愛するふりをしながら、他のこともちゃっかりとやっていたのです。

自分では気付かない無意識の「ちゃっかり」が頑張ることをやめさせてくれなかったのです。本来「愛する」という行動は、我慢など必要のない、とても自然なことであり、溢れ出すものです。無理や我慢をしている時は、無意識ではあったとしても、必ず何か意図があるのです。そうでなければ人はわざわざ我慢や無理をしません。

身近な例を挙げるなら、嫌な仕事についていたとしても、お金がもらえるなら我慢するとか、食べたいものがあるけれど、太るから我慢するなど、何かしらメリットがあるものでなければ、人は我慢しない生き物です。

それは子育てでも同じこと。私は自分にとってのメリットのために我慢して頑張っていることがあることに気づきました。そのメリットについて白状したいと思います。とても恥ずかしい自分ですが、その自分の思いを知ってあげることが我慢をやめる為には不可欠でしたから、気づけてよかったと心から思います。

それは、自分が子どもの頃にして欲しかったことを無理しででもしてあげること。自分が子どもの頃にして欲しかったことをすること自体は、子どもが喜ぶことなら基本的に何も問題ないと思います。むしろ、幼少期に傷ついた自分を癒すためにも、してあげた方がいいと思います。でもそれが無理や我慢をしてまですることになると、話は別です。

例えば抱きしめてもらった経験が少なかった私は、娘たちには存分に甘えて欲しいと思い、いつでもギューして〜と言ってくる我が子を抱きしめていました。その気持ちに偽りはありません。でも忙しい時など、少しイラっとする自分がいるのに、それをごまかして抱きしめてあげることがありました。それは、自分がして欲しかったけどしてもらえなかったから、少しでもその不足感を子どもに感じさせないために頑張って無理をしていると納得もしていました。

でも実はもっと深い理由がありました。なぜそんなに頑張って無理してまで抱きしめることを優先したかといえば、自分がして欲しかったときに、してくれなかった母と今の自分が同じになりたくないからでもあったのです。要するに親への不満を消化できておらず、親への怒りの感情で意地になっているのです。「私は母のようにはならない」と言う意地です。

親の前で、我が子を抱きしめる時など、「私はあなたができなかったことをちゃんとやってるから、娘たちは幸せそうでしょ?」というドヤ顔で見せつけるような気持ちがどこかにありました。そんな時のハグは、全く娘に対する愛ではなく、母を攻撃するために利用するものとなっていたのです。

我慢してまでするハグには、子どもに愛を与える力などありません。子どもに対して失礼でもあります。我慢してハグする意味などどこにもないのです。イラっとしているのであれば潔く「今は無理だから後でね」と断ることこそ、自分も子どものことも大事にする行為だと気付いたのです。

これには副産物がありました。自分を改め、我慢してまでハグをしなくなると、今度は母がハグをしてくれていなかったことにも感謝ができるようになったのです。もしも母がハグを存分にしてくれる人だったとしたら、私はそれこそハグをしない自分をダメな母親だと思って無理や我慢をし続けたと思います。

でも「母もやっていないけど、自分はちゃんと育ったのだから大丈夫だ」と思えることは自分自身をプレッシャーから解放し、救うことになるのです。そしてそれは娘が母親になった時にも娘が自然体でいることを許すことになるのです。

我慢や無理をする必要はどこにもありません。誰も望んでいないのです。ましてや誰かへの恨みを晴らすために我慢をして自分を傷つけるなど愚の骨頂です。

今も甘えん坊の三女は当たり前のように抱っこをせがみますが、私は自分の気持ちに沿って対応しています。余裕がないときは、はっきり「ママは今余裕がありません」と言って断ります。すると娘たちは逆に私に優しくしてくれるのです。親だけが頑張らなくても、子どもが親をハグしたり、家族で支えあっていければいいのですよね。

他にも子育てで我慢してしまう理由があるのですが、長くなったので、次のページでお話しします。

つづく


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