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悟りとは

わたしから見たこの世界は、矛盾だらけの混沌とした世の中で、誰も本当の幸せに気づいていないように思うのだが、それはわたしの心のレベルの反映(投影)だから、実際皆さんの深層心理は分からない。

もしかして、皆さんはとっくに悟りを得ていて、わたしだけがこの世界に取り残されているのかもしれない。

皆さんはとっくに目覚めており、その肉体には誰も存在せず(その肉体を持ってこの世界を観察する霊、もしくは魂と呼ばれるものはおらず)、それでも映像や音だけがわたしの太古からの記憶でそのまま投影されており、目の前の抜け殻の肉体と話し、絡み、それが本当であるかのように反応している、そんなわたしがいるだけ。

たとえ、その肉体を通して皆さんがこの世を見ているとしても、その言動は遥か昔に用意したシナリオに過ぎないため、すべてが茶番であり、会話や肉体の接触も心の伴う本質的なコミュニケーションではない。
一元性的な思考で見たこの世は、そんな世界だと言える。

実際皆さんの精神レベルがどうであろうが、全てはわたしが好んでそのチャンネル(レベル)を見ていると言うことであり、イライラすることや、不安になることや、悲しいと思うこと、それら全てわたしの精神レベルが決定している世界という事である。

真剣に、わたしはこの世はそんなものと思っている。
そうではなくてはもはや可笑しいだろう。
なぜなら、この世界の音と言われるものはわたしの脳内だけで鳴っており、この世界の映像はわたしの脳内だけで上映され認識しているだけなのだろうから。
物理の世界ではその事実を否定することはない。
自由意志のない事実も完全に否定することはできない。

深い孤独に陥りそうだ。
こんな現実離れした話をべらべら喋っていたら、きっとどこかに収容されてしまうだろう。
あながち、そんな事例はそこらじゅうで起こっているかもしれない。
統合失調症とか、ノイローゼとか、自己愛云々とか、病名は何でも良いけど、正常と自負している者たちが、分離を強化するための構造の一環で、都合の悪い他人を、見た目の言動の症状で判別し分類していく。
本来分つ事のない、一なる存在であるわたしたちは、そんな行程で霊(魂)の数だけ分裂されていく。

そんな物語がこの世には用意されており、予定通りに展開されていく。
平等とか平和とか、一つに纏まろうとか、いくら頑張っても、いや、頑張ろうとすればするだけ、この世は分裂されていく。


そこまで思いを巡らすと、一元性では実際は誰もこれを読む事はないし、何も書く必要がなくなるという思考から抜け出せないので、やはりここは幻想の力を拝借し、少し次元を変えて悟りとはを楽しく考察してみる。
あくまでも自分の思いを整理するために。
もし皆さんはとうに悟っていらっしゃるなら余計なお世話で、すみません。


悟りとは色々な解釈がある。
代表的なものは「まよいが解けて真理を会得すること。」(広辞苑無料検索)

色々な解釈と同時に、色々なレベルもあるように見える。
当時のブッダはこの世が無だと自覚した。
そして悟りを開いた。
しかしイエスは全ては幻想であり、分離という状態を自覚し、その原因まで突き止め、その先のを知った。
この差は大きい。

それはそうだ。
この世が無であることだけが真理なら、わたしたちの霊も無になってしまう。
断じて神は在るのだ。
だからわたしたちがこうして居る。
わたしたちは圧倒的な存在である。

神という表現に抵抗があるならなんでもいい。
大いなるモノ、大宇宙、大生命、たった一つの原因の、結果であるわたしたち。

わたしたちはただ現象を取り入れているだけの器ではない。
例え自我がしゃしゃり出ていても、光であるわたしたちの存在に価値がないような表現は似合わない。
本当のわたしたちの本質を知れば、無である存在だなどとは絶対に言えなくなる。
(と、思う。)

真理を会得するという事は、それが究極の真理である必要がある

投影している自分の行いを自覚し、この幻想の夢の世界から完全に目覚め、神の国の扉の前に立つ。
そのために究極の赦しを施す。
無罪性を認識すれば必ず幻想は消滅する。

それがコースの語る贖罪であり、
わたしの思う悟りの境地である。
それ以降は神のはからいなので、人(神の子)のなす事はここまでである。
それも、自分自身は何もせず、聖霊の思考に委ねる。

コースは一見、聖霊に委ねるという他力本願に見えるが、自我の思考か聖霊の思考かは、常に選択し続けなければならない。
この世は自我の世界なので、まず自我の思考が発動する。
自我の声が大き過ぎて聴こえにくいかも知れないが、聖霊はその訂正を常に用意している。
そんな思考体系の変更を日常的に行っていく。
一つ一つ丁寧に取り消していく作業だ。
自然に任せ身を委ねたままでは、すぐに自我の思考に支配される。
何万年も使ってきた思考なので、そんな癖がわたしたちには付いている。
わたしたちは何も行動する必要はないが、常に聖霊の声を聴く準備をしていないといけない。
他力本願のわりに、気を緩める事は厳禁である。

それがコースの言う贖罪であり、奇跡であり、悟りへの道である。
イエスはこのコースの教義が天国への(悟りへの)一番の近道だと言っている。


この世界の現象の原因を突き止めず、この世は無だと知覚しただけでは、いつまでたってもその先には進めない。
ブッダも薄々気づいていたのかも知れないが、当時はそれを伝える術がなかったのかも知れない。
あまり興味は持たないが密教にはそれらしい教義があるのかも知れない。

イエスは20世紀になって、人々が進化した情報というツールを持ち、理解する者もいることを見込んで、聖霊の具現化として現れた。(正しくは一人の女性が受け取る声として現れた。)

真理は言葉や文字には起こせない。
イエスはこれ以上ないというぐらいの真実に迫った比喩的な物語として真理(奇跡のコース)を語ったのだと思う。
運良くわたしはその教義に出逢えた。(太古に書いたシナリオ通りの展開、もしくは聖霊の訂正を無意識に受け入れていた。)
そして理解できた。(と、思う。)

こんなにシンプルで愛に満ちた教義は他にはない。
あとはそれぞれの啓示的な体験と照らし合わせていくことができれば完璧である。


しかし、悟りは人だけが会得する境地ではないかもしれない。
動物も植物も鉱物も、すべての物体に霊が宿っているのかどうかはわたしの頭では理解できないが、
人の脳が判断や学習で悟りを得るわけではないのなら、きっと別の感覚のようなもので真理を会得することがその境地に辿り着く道だと言える。
という事は、私たちより犬やイルカの方が余計な煩悩や障碍が少なかったとしたら・・・。
とは言え、例え動物や鉱物が悟りを開いた事実があったとしても、
わたしにとっては、わたしの世界はわたししかいないという真理は変わらない。
例えそこかしこにいる犬や猫が解脱し放題だとしても、わたしにとってはそれらはただの幻想の物語であり、必要なのはわたし自身の贖罪であるわたし自身への赦しである。


余談だが、インドとかチベットとかに存在する覚者(悟りを得た者)は身体を放棄しているのかシモの世話まで弟子たちがしているという話を聴く。
弟子たちは修行の一環でしているのか?
覚者である師匠を尊敬し、あやかるためか?
弟子たちは何をしているのだろうと思う。
放っておけば良いのに。
たとえ覚者の身体であろうが本当に肉体が真実だと思っているのだろうか。
それは偶像に過ぎない。
一体何を修行しているのだろう。
せっかくこの世は自分しかいないと修行を励むことのできる最高の環境に身を置いているのに。

いや、でも所詮この情報もわたしの投影である。


悟りとは、きっと手にしたと思った瞬間にすり抜けていってしまうものだろう。
まだ足りないと思っているうちは悟りの境地ではあり得ない。
「わーやったー 悟ったぞー」
などと間違っても有頂天になることは無い。
ほくそ笑むこともない。
悟っているという自覚は、悟り人にはない気がする。
本当に悟ったら、悟っていなかった頃の記憶など霞んでいる。
神の愛から一度も離れていなかったことを自覚する。
そんな精神状態になる。
すべて内側で起こっていることなので、周囲の者たちはそれぞれのレベルの投影でしか認識できないため、その人物が悟っているように見えたとしても、それはただの幻想の映像である。
所詮悟りを得られていないわたしたちは、幻想しか見られないのだから。
覚醒していたイエスが、十字架上で神に対して恨めしい言葉を吐いていたとしか見えていなかった人たちのように。

悟りとは比較のない絶対的な幸福感に満たされている状態。
答えをもらえずとも、これ以上もこれ以下もない、揺るぎのない自覚のある状態。

神を語る言葉が無いように、究極的な悟りは語ることができない。
言葉の無い世界の出来事なのだろうから。

以前は人間でないと悟りを開く事はないのではないかと思っていた。
動物たちは魂の質が違うような気がしていたからだ。
本当の事など分かりようがないが、今はやはり全て同じだと思える。
分裂していると思っているわたし達は誰一人として欠けることは有り得ない。
それは動物でも、植物でも、鉱物でも。
それぞれは一体性の一なる神の子の一欠片なのだ。
そう、最終的には皆んな一緒に神の国に戻るのだから。

毎晩愛犬の身体に触れ、「あなたは無罪であり、赦されている。」と癒している。
チュールが大好きで、宅配のピンポンで毎回吠えまくっているが、内側では実は一番精神性が高いかもしれない。
わたしより先に悟りを得て実相世界で待っていてくれるかもしれない。

* わたしの記事を読んで、恐怖を覚えたり、酷い怒りを持たれる方は、今後無理をして読み続けることは避けてください。


「奇跡のコース」 言葉の意味

コースは訂正の教義とも言える。
基本的に地球上の多くの人が親しんでいる聖書の言葉を用いてそれまでの概念や常識を訂正している。
キリスト教に縁が薄い日本人には、少し感じにくい世界観だが、聖書に対して余計な思い入れもない分、難しく考えず素直に受け入れて行けばいいと思う。

<贖罪>
例えば贖罪は、「自らではあがなうことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によってあがない、神と人との和解を果たしたとする。(広辞苑無料検索)」と一般的に解釈されているが、コースにとって罪は存在しないという大前提(真理)があるため、全くその意味は機能しない。
贖罪に関して言えば、ほぼ死語と扱ってもいい気がする。
しかし世界中の人の自我は贖罪という言葉が大好物なので、簡単に手放すことは不可能に近い。それとともに原罪の真実性を持ち続けることになるため、それを訂正すべく全く別の解釈を持たせてコースに登場させている。
コースでは贖罪赦し救済奇跡も、一連の幻想の取り消しの作業を示す言葉でほぼ間違いないと思う。
言葉や文字は象徴の象徴であり、真理と二度隔たりがあると言われているように言葉自体には何の力もない。言葉に固執しないよう、あまり深い意味を持たされていないようにみえる。
言葉で内容を覚えるのではなく、体験と幻想を取り消していく過程を大切に扱っていくのだ。
コースは単独で行う実習カリキュラムである。
唯一聖霊を師とし、常にそれは何のためにあるのかと、目の前で起こる事を、あるがままに捉えられるように自分自身に問いかけていく学習である。
コースの教室を開いたり、このように記事にしたりして、他人にいくら用語を上手く説明できたとしても、コースの教義の本質に触れたことにはならない。

<聖霊>
この幻想の世界で、唯一神の意志を伝えるもの。
神はこの幻想の世界にはいない。
神が存在するところは真理になるざるを得ないからである。
幻想の相手が出来る(取り消していく)のは幻想である聖霊である。
コースを語ったイエスは聖霊の具現化されたものであり、聖霊と同一の存在である。
わたしたちも完全に真理を極めた時(悟りを得た時)、聖霊化されるもよう。
この幻想の世界が完全に取り消された時、本来幻想であるものはすべて消滅されるのだが、聖霊は神の国の三位一体に属されているため、神の国でも永遠に残るもよう。(分別したがる人間の考えそうな事かもしれない。真理の上ではどうでもいい事のように感じる。)

<実相世界>
いわゆる悟りの世界だと思う。
人が辿り着けるところはここまでであり、神の国のような至福感を味わう。
時空間のない自由な世界だと思われる。
神の国(天国)に入るのは神がその扉を開けた時と言われているので、わたしたちはその実相世界で楽しみながら待つのだ。
神の国に戻るためには完全に全一(ワンネス)にならなければならない。
一人として取り残されては全一にはならないので、全ての霊が目覚めたとき(悟りを得た時)、はじめてその扉が開けられるのではないかと思う。
もちろん比喩的な表現である。
元々神の国から一度も離れていないのだが、わたし達は離れていると思っているため、全一の意識が蘇るということかもしれない。
単独者といわれる霊に戻っている状態かと思われる。
*単独者については次の記事で書こうと思っている。

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