描きたいもん無いってか、押し殺されてるだけだったよね

今回は吐き出しです。
創作に対する吐露も美味しくいただけるよって人だけ読んでみてね。

あれ?もしかして私がずーっと”描きたい”もん無かったの、そーいうことじゃないの?

って記事。



結構長い間、私には「描きたいもの」ってじつは無かった。


でも描きたいモチーフやスタイルは強烈にあったので、ただただそれ”そのもの”になるまで根っこから写し取り続けた。

それは伊藤嘉之さんの絵であったし、八神太一であったし、色々。


でも、その行為自体は地獄みたいにいつも苦しくて。
だから外見から見ると楽しく描いてるようにしか見えないのに、いつも爆弾みたいな気持ちを抱えていた。

絵に私の本質が滲み出ていたから、本来の私の性質が存分に出た作風になってたんだと思う。



気持ちは常に鬱鬱してたけど、その分厚い暗雲の下には陽気で元気いっぱいで素直でむっつりな私がいつもいた。
絵という形でかませることで出てくることができたんだよ。たぶん。知らんけど。

それでもやっぱり、根本の根本、いちばん元の根っこはいつもぽっかり空いてて。


他者の目に、社会に怯えるあまり、自分の欲求───本来湧いてくる「描きたいもの」が押し殺されて。
まるで存在そのものが無いみたいに、奥の奥のほうに押し込まれてしまっていた。

「失敗しちゃいけないんだ、
弱みを見せたら刺されるから強く振舞ってなきゃいけないんだ」

そんな不器用で傷だらけな生き方が、そのまま創作の在り方の一面になっていたかもしれない。


「白黒つけて答えを提示していなきゃいけないんだ」

「誰にも痛いとこ突っ込まれないように、破綻が無いものを描かないと」

「他者から見て気持ち悪いものを描けば叩かれたり晒されたりする。慎重に探らないと」



そういうのぜんぶ絵の描き方に出てた気がする。
いつも怯えていたし、威嚇していた。



表向きは綺麗に完成度高いように見せて、でも物凄くその工程は血反吐吐くような執着とアンドゥリドゥの繰り返しで。

他者からの批判にひどく怯えていた。



誰でも批判は嫌だけど、私の場合腫れ物のように、骨の髄をチクチクと刺されるようで。

その痛みは、海面プレートの食い込みで起こす地震のように、大きく周囲を揺らして迷惑を振りまいてきた。


だから、私は能天気に絵を描いてる人間が苦手だし、
絵を湯水のように消費する閲覧側の存在に、怒りと嫌悪を感じずにはいられなかったんだろう。
絵という何気ないものに、重たいものを乗せすぎてしまっていた。




化物語のひたぎさんが「自身の重みを神さまへ投げてしまった」ならば、
私は「自身の重みを絵へ投げてしまった」のだろう。

そのくせ描きたいものはわからないので、ブクブクに膨れ上がった感情と、描いてるもの自体のボリュームは全然比例していなかったと思う。



創作が苦しいから、見る人にもそういう苦しみを汲み取る行為を求めてたところがあった。非常に。
それなのに、見て欲しいのに見られると怒りのようなものが湧いてきたりして。


創作=心の安定、安らぎ、自分を繋げ止めるものだった。
生きる苦しみを創作に滲ませすぎちゃってて、だからそれはもはや叫びで。



ヘンゼルとグレーテルみたいに、自分たちの存在を知らせるためのパンくずを、食べ物として美味しい美味しいと、気まぐれにやってきた小鳥たちに食べられるのは、死活問題だった。

がんじがらめになっていた。苦しくて苦しくて。息苦しくて。創作で皮一枚なんとか繋がってるようなもんだから。

(お絵描きYoutuber、松村上九郎さんの動画。焦った時はこの動画で心を落ち着ける)




足りなくて足りなくて、それを本来はただ楽しい行為であるはずの”お絵かき”で埋めてしまうもんだから、
絵を描く大義名分とか、本来いらないものをいっぱいくっつけて。

でも心のどこかでは、ただただ心のありようを鉛筆に乗せて外に出したいだけなのに。

…いや、「センスとか褒められたい」とか、「目立ちたい」とかあるか…。



泉が枯れたのはさ、じつは泥が詰まってただけだったんだよ。美味しい水はずっとそこにあったんだ。
底の底にあったんだよ。


失敗してもいいし、へんてこりんでもいいからさ、ただただ出てくるものを出力してみるっての、やってみてもいいかもよ。


大丈夫、怖くないからさ。

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