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文章と教養 #教養のエチュード

今回、教養のエチュードに参加させていただくにあたっては、文章というものに対し改めて教養との関係性と文章の本質について再考しようと思う。

1:文章の最小単位、単語

文章を考える時、まず最小単位である単語を避けるわけにはいかない。
一口に単語と言っても、例えば母、お母さん、ママ、お袋、いずれも母親を指す単語ではあるが、その実のところ与える印象は大きく異なる。
単語はその中の言語空間に多様なニュアンスを含み、なおかつ普遍的な相互合意の元で意味合いが変わってくる。

母であればやや硬い真面目な文章が対象の、かしこまった表現として扱われるし、ママ、お母さんであればプライベートでの口語的な表現として受け止められる。

また、別の例として薔薇、ばら、バラ、bara、同じ花を指す単語ではあるが、表現形態として漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字表記でもまた相手に与える印象は変動するはずだ。

そして、教養とは既にこの単語の選択の時点でその人の人となりが現れる。
単語一つとっても、小難しい言い回しを用いたり、平易な表現に徹したり……時には関係のない単語同士を連結させて特定の事象を指したりも出来る。ワードセレクトはその人の教養を如実に文章に示す一つの指針であるように思う。

2:単語を積み重ねた先にある文節

単語の時点で既にその人の教養とは切っては切れない、では、次に文章の構成単位として出てくる文節はどうだろうか。もちろん、単語の時点で関わってきた教養は、文節を構築する際にも現れる。

文節を構築する際、平易な順列での表記、あるいは倒置でのつながり、あえて必要十分な単語量からさらに情報を削り落とし、文章の余白を持って意味の陰影を際立たせる事もできる。

文節の時点で、様々な単語の連結形態があるのだが、それらの使い方は実のところ文章と言う物が意味、意義の連なりである。意味情報の連なりを組み立てるにあたっては、単語の並べ方一つでその意味合いが変わってくる事をその身でもって理解していないと、中々自分の手で再現することは難しい。

これはただ読書量が多ければ良い、わけでもなく多彩な表現形態の文章に触れ、またその意図を適切に読み取る知性が求められる。先人の贈り物たる文章の大地を掘り下げ、その地層のありようを理解した先に自分の文章が立ち上がってくる。

特に、同種の文章ばかりだと、文章とはそういうもの、という固定観念がくっついてしまうかもしれない。自分の認識では、文章表現とは無限に自由ではあり、しかして相互理解の抑圧を受けるものでもある。

3:段落と構造、構成

単語を組み合わせ、文節を組み立て、そうなると次にやってくるのは文章の構造、構成の話をするのが必然となるだろう。

時に、プログラマーが良い文章も書ける人が多いのは、どちらも情報を処理する上で情報の構造を頭に入れておかなければならないが故と自分は分析している。

ここでは小説からミステリーを例にとってお話することにしよう。

王道的なミステリーでは、まず被害者の死と、死にまつわる謎、これは何故犯行に及んだのかのホワイダニット、如何にして殺したのかのハウダニットなどがまず冒頭で開示される。

そして、その謎を解明していく過程を探偵役と一緒に楽しむのがミステリーの基本だと自分は理解している。何故ここでミステリーを例えに上げたかというと、文章の構造上、どの情報がどの段階で開示されるかが作品の面白さを大きく左右するためだ。

確か刑事コロンボシリーズは最初に犯人と犯行は明確にされ、それを主人公が如何にして追い詰めるか、といった点をエキサイティングなポイントとして配置している。

どの情報を、どの段階で提示するのか、文章とは、基本右から左か、上から下に順番に読まれる物なので(たまにへそ曲がりは居るものの、あまり想定はされないものだ)書く側も必然的に順番に出す情報を吟味する形となる。

この、文章は順番に読まれるの基本原則自体は大抵の方は身についているように思う。そこから、順番に処理されることを逆手にとった文章の配置を行えるか、そんな発想に至れるかはひとえに文とどれだけ向き合ったかに左右されるのではないだろうか。

4:文章全体の雰囲気を決める文体

単語、文節、構造ときて、文章の構成部品として文体をさしおいておく訳にはいかないだろう。

文体は何かというと着飾る服飾品……が自分の理解ではもっとも近しい。文体そのものは、文章の意味自体は左右しない。むしろ文体で意味が左右されてしまっていると、それは内容自体が書き換わってしまっていると考えられる。

意味そのものこそ文体は左右しないが、文章とは、読み手の心理心情を大きく動かしうる物だ。人は第一印象に大きく左右される。であれば、文体もまた読んだ物の心理心情に大きな影響を与える。

事務情報であれば、変に心理を揺さぶる文体であるのは不適切なのは容易に想像がつくであろうし、エモーショナルを狙ったエッセイがまるでお役所仕事のような文面では……それはそれで滑ってしまっている。

ここで重要なのは、文体は服装にして振る舞いでもある点だ。
すなわり、時と場合と場所を踏まえた振る舞いが出来るかどうか、ともいえる。その事をわきまえた上で、式場にジャージで来るような文体にしてみたり、あるいは、ファミレスに一世一代の晴れ姿で現れる様なミスマッチも、それはそれで一つの表現ではないだろうか。少なくとも自分はそのように考えている。

なんにせよ、文体が服飾品であるならば、その服飾品のレパートリーを支えるのはやはり教養に他ならない。文の清濁を合わせた先に敢えて濁文を持って表現と成すことも選択肢の一つとして、好きだ。

文章において教養とは、その隅々に至るまで染み渡る血脈

文章の構成要素四点から教養との関わりを思案してみたが、実のところ僅かな単語一つ取ってでさえ、文章を影から支えるのは教養に他ならない。
ここでは、そういう形に結論付けたい。

けれども、文章表現とは生の現れでもある。
熟達と教養の良し悪しがなければ書いてはいけない、などということはなく、自らの悪文駄文を乗り越えた先に研鑽の成果として現れるものではないだろうか。

教養もまた、文章の影法師であるならば、生の日向にて受けうる全ての知識・経験・心情が教養として魂に還元され、それは文章という果実として結実する。

そこには通り一遍な答えはなく、ただ生の証として人それぞれの文章がたち現れるのだと、今日ここに置いては自身の心に留め置き、もって教養のエチュードとして提示する次第とさせていただきたい。

~了~

本稿は以下の企画の参加作品です。


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