見出し画像

文章表現の濃淡

今日はここんとこ頭の中でぐるぐるしている内容をアウトプットしたい。

文章表現を考えるに、短文の美、という概念がまずある。
俳句、和歌、あるいはキャッチコピーなど文字数の限られた表現は、一字一単語の選択の時点でどの文字を入れるかで全く意味が変わってきてしまう。

突き詰められた短文の美しさは、実際にそれらを学んでいる方においては自分のような浅学の者が語るまでもない。

突き詰められた表現は美しい。
では、長文もその様に書けばいいかと言うと…時と場合によると考えている。

研ぎ澄まされた一文は情緒、情報量に富み、読み手のニューロンを刺激する物だが、ひるがえってそれが延々連なるとなると、話が変わってくる。
ある意味、味の濃い料理を延々食べさせるようなもので肝心の決め、サビのシーンのインパクトを弱めてしまう恐れがある。

文字情報にも、濃い、淡い、薄いがあり、つまらない文章と言われる文は平易であり、突飛でもなければ異常性も無い、ある意味では優等生的な文章だ。書く文章の題材が素晴らしいのであれば、その様な平易な文章でも全くもって、問題はない。

では小説はどうか。
内容の長短は作品によるものの、書けば書くだけ文字量を盛り込みたくなるのが人情だろう。必然として、文字を書くことが楽しい人間の文章は長くなる。

しかして、ただアウトプットされた物が実際読んでみて楽しいか、良いものかはまた少し違う。ただ主観において勢いのままに吐き出された文とはしばしば客観性を欠き、情報量の不足、あるいは過多、選択されたセンテンスが前後の文脈と不一致であったり、論理構成が破綻していて読む側の思考が追いつかない状態になっていたりもする。

そのような、練られていない文章を客観的に見直すには時間をおいたり、あるいは第三者による監修と編集を受ける必要もあるだろう。

文章とは、記号のつらなりではありつつも、読んだ側の思考の中でイメージとして圧縮されていた情報が再解凍され、豊かな心理世界を構築する一助、相手の思考に影響する鍵にして、鍵であるからにはその構造、作用、影響論理は多種多彩となる。

その上で、文章上の意味合いの濃い淡い、調子の速遅、刺激の強弱などを考慮せず一本調子な内容にしてしまうのは、ただ白一色で塗りつぶされた絵画のようで面白みを欠いた代物になってしまっているのではないかと思う。

執筆二年にして、ようやく文章の深淵、その浅瀬に脚を踏み入れた心地といったところだ。

戦場へ

文章とは、表層的には記号の連なりだが、読み手によって多重の領域の重なりを持ち、相手の内的心理世界の変質をもたらすものである。

今はその事を念頭に、言語と文章というものの理解を進めていく。

今回はここまでだ、またな。

現在は以下の作品を連載中!

弊アカウントゥーの投稿は毎日夕方18時更新!
ロボットが出てきて戦うとか提供しているぞ!

#コラム #毎日更新 #毎日投稿 #毎日note


ドネートは基本おれのせいかつに使われる。 生計以上のドネートはほかのパルプ・スリンガーにドネートされたり恵まれぬ人々に寄付したりする、つもりだ。 amazonのドネートまどぐちはこちらから。 https://bit.ly/2ULpdyL