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言葉のインフレーション

ぼ〜っとSNSを眺めていたら、映画「トップガン」で共演したトム・クルーズとケリー・マクギリスの1986年と2022年の写真が出てきた。1986年の写真の中では二人とも若々しく輝いているが、その36年後の2022年の写真では、当然ながら往年のハリウッドスターたちもそれなりに年齢を重ねていた。現在でもハリウッド映画で主役を張っているトム・クルーズは今も若々しく大スターのオーラを放っていたが、最近は女優の仕事をあまりしていないらしいケリー・マクギリスの方は、髪が真っ白で太めの普通のおばちゃんになっていて、往年のセクシー女優の面影はまったくなかった。

その下にズラ〜っと英語のコメントが並んでいたので、みんなどんなことを書いているのかと思って読んでみたら、ほぼ全てがケリーに関するもので、しかも好意的なもの、というより称賛の声だった。曰く、「飾ってなくて美しい」、「誰だって歳をとるのは当たり前、自然体で美しいと思う」、「美容整形して若作りする女優が多いけど、彼女はそれをしない。美しいわぁ」と、こんな感じのコメントが続いていた。ほとんどのすべてのコメントに「ビューティフル」の言葉が入っていて、まるで「ビューティフル」のドミノ倒しだった。

日本のSNSでは、かつて人気者だった女優やアイドルタレントの現在の写真に「劣化」などという悪意あるコメントがつくことがよくある。でも、ケリーの写真には「彼女も歳をとったなあ」みたいなコメントがごく僅かにあっただけで、彼女を貶すようなコメントは見た限りではまったくなかった。一見良識ある人たちのコメントが並んでいるようにも見えるのだが、私は気味悪く感じてしまった。

まず、我も我もと競い合ってケリーを褒めちぎっているのが不自然に感じる。彼女は女優なのに、いい意味で一般人の期待を裏切って普通のおばちゃんになっていたことに大きな驚きや感動があって、みんなが思わず「ビューティフル」という言葉で表現したというだけのことだろうか。私にはそうは思えなかった。

彼女の過去と現在の写真、そしてあまたの「ビューティフル」のコメントを見て私はどう感じたかというと、だいたいこんなところだろうか↓

年を重ねれば誰でも普通におばあちゃんになっていく。女優だってそれが当たり前。
ケリーは無理に若作りしてなくて自然だなあ。
若さや見た目に固執していないところが潔い。
私ももうすぐあんなふうになるんだなあ。
昔どんなにきれいだった人でも例外なく年をとるということを見せてくれると、安心するなあ。
とはいえ、これほど大袈裟に「美しい」と絶賛するコメントが溢れているのは嘘くさくて偽善的で嫌だ。

私はケリーが白髪の太めのおばちゃんになった写真を見て、多くのハリウッドスターのように見た目に執着しないところが潔くてかっこいいとは思ったが、”ビューティフル”という言葉は浮かんでこなかった。”ビューティフル”には無理があるように思えた。

「ビューティフル」コメントを残した(おそらく)女性たちは、「見た目じゃなくて生き方がビューティフルなのよ」と言うだろう。それとも、「その人の内面は外に滲み出てくるから、彼女の内面の美しさがわかる人にはわかるのよ」と言うだろうか。そういうこともあるとは思う。でも、私は多くの人たちから一斉に「こういう人こそ美しいというべきよ」という「べき論」を押し付けられているように感じてしまった。

意地悪な言い方だけど、白髪のケリーに過剰な賛辞を送る女性たちは、実はケリーではなく、容色が衰えた自分自身を、「でも内面は美しい=私は美しい」のだと肯定したいだけなのではないのだろうか。

私は人を見た目で判断しない(それって正しいこと)。
彼女の内面の美しさを理解できる(それがわかる私は知的で素敵)。
人を見た目の美醜でしか判断できない人はかわいそう(でも、私はそうじゃない)。
外見に固執しないって素敵(ケリーのように白髪で太っている私を肯定)。
などなど。

ケリー・マクギリスは、この、ビューティフル金太郎飴のような賛辞を受けて嬉しく思うだろうか。私がケリーだったら、「安っぽい言葉で褒めてくれなくていい。ほっといてほしい」と思うだろうな。

安っぽい賛辞を送っているだけではなく、ほとんどの人が一様に「ビューティフル」という言葉を使っているのも気になった。あまりにも言葉の選び方、使い方が安易で陳腐で安っぽい。大袈裟な言葉を使うと言葉の持つ力は逆に失われてしまう。コメント欄にこれでもかというほど「ビューティフル」が溢れると、本来なら感動を喚起するはずの「ビューティフル」にまったく心が動かなくなる。

言葉の意味のインフレーションだ。

みんながじゃんじゃん大袈裟な言葉を使うと、相対的にその言葉の価値がどんどん下がり、意味が弱まるので、それまでよりも一層派手でインパクトのある言葉を使わないと間に合わなくなる。かくして言葉はどんどん使う人の意に反して加速度的に安っぽくなっていく。

一時期「カリスマ○○」が流行った。それはほぼ消滅したが、今度は「神○○」といった言葉をよく目にするようになった。ネットには「神展開」、「神対応」、「〜は神」といった言葉が氾濫している。宗教団体からクレームが来ないのだろうかと心配になる程だ。

みんなが他よりも気の利いた、刺激的な、センセーショナルな、目立って印象に残る表現を使おうとするあまり、カリスマも神もネットに氾濫してご威光を失ってしまう。日本の神は一神教ではないとはいえ、こうなると文字通り「やおよろず」の神の国だ。元々はカリスマも神も最高の賛辞として使われていたのだろうが、今ではほとんどジョークになっている。

旬の食材は刺激のきつい香辛料を使うよりも、シンプルに調理して食べるのがいちばんおいしいように、言葉も本来の意味を丁寧に活かすような表現がいちばん洗練されていて美しいと思う。話し言葉では、その場の雰囲気や言葉のキャッチボールの勢いもあって、つい大袈裟な言葉を使ってしまうことがあるが、書くときくらいはもうちょっと冷静になって言葉を”等身大”の意味で使いたい。




らうす・こんぶ/仕事は日本語を教えたり、日本語で書いたりすること。21年間のニューヨーク生活に終止符を打ち、東京在住。やっぱり日本語で話したり、書いたり、読んだり、考えたりするのがいちばん気持ちいいので、これからはもっと日本語と深く関わっていきたい。

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