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『思考のエンジン』のまとめ

約半年かけて、『思考のエンジン』を読んできました。

それぞれの章のまとめはこのnoteに投稿してあります。

では、本書全体としては、何が書かれていたのでしょうか。今回はそれをまとめてみます。

書くことと道具

本書の大きなテーマの一つが、書くという行為と道具との関係です。

ペンと紙による手書きが当たり前だった時代から、タイプライターという機械を通して書けるようになり、ワープロ(ワード・プロセッサ)が普及し、最後にはコンピュータが登場した時代への変化。

「話す」こととは違い、「書く」ことには常に道具が伴います。そうした道具の影響は、簡略化・自動化できて便利だね、という効率化の領域だけでなく、もっと本質的な、つまり書くことの内実を変えてしまう領域にも及んでいる。

まずこの視点が本書の基調としてあるでしょう。

そもそもとして、書く道具が書くことに影響を与えるという視点そのものが一つの世界観を伴っています。つまり、あらかじめ決定された"内容"というものがあり、それを文字に書き写す行為が「書く」のだとしたら、道具の影響は効率性・能率性にしか及ばないでしょう。逆に言えば、書く道具が書くことに影響を与えうるならば、「書く」ことは規定のものを単に紙に書き写すのとは違った性質を持つことになります。

もちろん、書き写すだけの「書く」も存在しているわけですが、本書がまなざしを向けるのは、そうではないタイプの「書く」──プロセス・ライティング──というものです。

思考の変容

上記をすごく雑にまとめれば言えば、書くための道具は私たちの「考え」(あるいは「考える」という行為)に影響を与える、ということになります。

本書はそのような道具の変化=思考の変化を、モダニズムからポストモダニズムへの思想の変容と重ねて描写していきます。おそらくこの点が本書の難しさ(あるいは取っつきにくさ)として機能しているのでしょう。

もともと思想的な言葉遣いは日常と距離感があるものですが、現代思想的なそれは輪をかけて「遠く」感じられます。ラング、パロール、シニフィアン、エクリチュール、ディスコースといった言葉の語感に親しんでいないと、それだけで本書は「よ〜わからん」と敬遠されかねません。

ただ、ある程度辞書を引きつつでも読み進めると、なんとなく言わんとしていることは見えてきます。よ〜わからんなりにわかった感じがしてくる。そんな中途半端な理解なんぞ不埒であり不誠実だ、みたいな意見もあるかと思いますが、私としては著者の主張の「感じ」をざっくりとでも受け取れたらまずはOKかなと感じますし、本書から現代思想に興味を持つなんてルートもありえます(その際は『現代思想入門』などを手に取るとよいでしょう)。

ともかく、現代思想的な展開が一方でなされつつも、現実の道具をベースにした論も展開されていくので、その辺を合わせて(あたかもクロスワードパズルを解くみたいに)理解を整えて読んでいくのがよいのではないかと思います。

道具的思考

具体的な話に入ります。

まず「タイプライター的思考」というものが提示され、それは「全体の統一性を考えながらばらばらな部分を寄せ集め、つないでいく」ものだと説明されます。そしてそれは「19世紀末的な効率と生産性を可能にするシステムによる思考」だとも述べられます。

次いで出てくるのが、「アウトライン的思考」です。一般的にアウトラインは構造を示すものであり、それを作る行為を助けるアウトライン・プロセッサは構造化のためのツールだと理解されますが、実際はその機能に加えて構造を壊すためのツールでもあり、二つを合わせることで脱構築的なプロセスを補佐するツールであると示されます。

注目したいのは、そこに再帰性があることです。

つまり、何かしらの構造がある。それを破壊して、新たな構造を作る。しかし、そうして作られた構造もまた破壊と再生の対象になりえる。そのようなプロセスの連続性の中では、絶対的なもの=真なるもの=超越的なものは規定できず、常に暫定的なものがそこにあるだけ、という観点が生まれ出ます。

もちろん、絶対的なものが不在のそのような状態は不安定ではあるでしょう。しかしながら、単に混沌が広がっているだけの状態とも違っています。

「暫定的なもの」しかない、という視点を取れば不安定ですが、暫定的であれ「もの」がそこにはあるのだと捉えることもできます。それが絶対的なものでなくても、「これはこうだ」と指し示すものが提示されてそこにあるのです。

この二つの状態、つまり何の形もない混沌が広がっている状態と、時限的であれ何かしらの形が提示される状態との違いには注意を向けるべきでしょう。

混沌はすべての可能性を内包していますが、それだけでは人は何かを読み取ることができません。指し示される形が必要なのです。

その次へ

本書において「〜〜思考」として明示されるのは上記の二つだけですが、構図的に整理すればもう一つ「ハイパーテキスト的思考」を提示することもできるでしょう。

ハイパーテキスト的思考は、複雑なものを無理に単純化するのではなく、複雑なままに扱うツールと共に走る思考で、現代であればリンク(ハイパーリンク)を使って情報を扱うツールが想起されます。堅苦しい階層構造に情報を押し込むのではなく、リンクを使って連想的に(ネットワーク的に)情報を扱えるようになるツール。

私はそうしたツールの一つとしてCosense(旧Scrapbox)を使っていて、そこには間違いなく新しい体験があるのだと理解していますが、インターネットどころか、個人が当たり前のようにデジタル端末を持つ環境が到来していない時代において書かれた本書が、その可能性を描写していることに驚きを隠せません。

本書のもう一つの大きなテーマがここにあります。テキストを超えるテキストとしてのハイパーテキストの可能性。これは、Webやデジタルノートなど、リンクを使って情報を扱えることが一般化した現代だからこそ掘り下げたいテーマです。

ただし注意したいのは、Hyperだからといってそれがテキストの上位互換ではない、という点です。つまり、ハイパーテキストなるものがあれば、テキストはいらなくなる、という話ではありません。そうではなく、ハイパーテキストは既存のテキストとの関係性を変える装置なのです。

テキストそのものは閉じられた性質を持つというか、閉じることそのものに本義がある。その性質は変えないままに、開かれたものを導入する。それがハイパーテキストです。

つまりそれは個々の具体的なテキストではなく、「テキスト」というものの存在(あるいは現象)を脱構築するものだと言えるでしょう。

さいごに

本書は決して「読みやすい」と言える本ではありません。現代思想的言葉遣いもそうですが、話題がまっすぐには進まず、わりとジグザグしている点も人によっては引っかかるでしょう。

とは言え、論旨が不明だったり筋が通っていなかったりというわけではありません。明確なテーマがあり、話には流れがあります。むしろその二つ──筋とジグザグさ──が独特のビートを生み出し、他には替えがたい文章になっていると言えるでしょう。生成AIの単純な出力では生み出せそうもない文章です。

人なるものと機械的なもの。単純なものと複雑なもの。閉じられたものと開かれたもの。

二つの相反する要素を扱う本書の文体としては、まさにふさわしいものなのかもしれません。


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