『思考のエンジン』第十章「補遺の連鎖とハイパーテキスト」のまとめ
『思考のエンジン』第十章のまとめです。章のサブタイトルは「ハイパーメディア・ライブラリーとライティング」。
この章には何が書かれているのか?
まず、前半では脱構築と「読むこと」が検討される。
脱構築とは、二項対立による構造を扱うものだが、しかし構造を無意味なものとして退けるのではない。あくまで目の前にある二項対立の構造を突き崩す──それも外部からではなく内部から──のだ。無自覚な前提になっている対立構造から自由になること。
その意味で、脱構築における「読み」とは、(絶対的な)意味なんかないんだからテキトーに戯れておけばいい、というものではない。「テキストが世界の戯れのなかで生成されていると認識して、そのメカニズムを暴くこと」だと著者。
この視点は「読むこと」だけでなく「書くこと」においても使えるという点で後半に入る。
後半ではハイパーテキストが俎上に載せられる。ハイパーテキストとは何か? それはまずハイパーではないテキストの性質を明らかにする必要がある。
ハイパーではない通常のテキストは、シークエンスだ。シーケンシャル。連続的な流れ。私たちの話し言葉(音の発生とその知覚)が起点になり、紙媒体に印刷される「テキスト」は、一方にまっすぐ流れていくものとして表される。
しかし、と著者は述べる。「アイデアの構造はシーケンシャルではない」と。アイデアというのはさまざまな形で関係し合い、絡み合っている。その一番わかりやすい例が脚注で、少し込み入った本だとものすごく長い脚注があり、そこで本論から少しズレた話が延々に展開されていたりする。こうした脚注は、一方に流れていくシークエンスを切断するものである。
注目したいのは、そのような「工夫」を持って、私たちはアイデアの複雑さを表そうとしているという点だ。一方でまっすぐに議論を流しながら、しかしそれと関係する別の議論をも提示する。言い換えれば、そのような工夫をしないと、自分の考え・アイデアをうまく表現できないのだとも言える。
では、アイデアの複雑さをできるだけ損なうことなく表現することはできないか?
そこで出てくるのが、テッド・ネルソンの思想であり、ハイパーテキストという概念だ。前述したテキストが持つ一方向性による制約を「超える」表現形式(あるいはその可能性)。それがハイパーテキストである。
ここで二つの意識がぴたりと重なる。
一つはデリダが行ってきた脱構築で、それは「パロールに支配されている音声におけるロゴス中心主義」への対抗であった。
もう一つはハイパーテキストで、それは話し言葉がベースとなって生まれているテキスト(という媒体や表現)への挑戦である。
つまり、ハイパーテキストとは、読むこと・書くことに関する脱構築なのである。
では、そのハイパーテキストとはどのようなものか。簡単に特徴を列挙すれば以下となる。
データにいっさいの構造を与えていないシステム
テキストの断片があり、つなぎ合わされているだけ
巨大な箱の中にテキストの断片が分類されずに放り込まれている
テキスト同士が網の目のように張り巡らされた糸によってつながれ、お互いの補遺になっている。
この段階で、2024年の読者であればピンとくる人が多いだろう。こうしたハイパーテキストの概念を「たとえ」を用いて説明する必要はなさそうだ。私たちが日常的に接しているWebがまさにハイパーテキストそのものだからだ。
個人の情報整理ツールにおいても、Cosenseを筆頭に「リンクベース式」のツールは当たり前になりつつある。それもまた、ハイパーテキストの思想を体現するツールであると言える。社会学者ニクラス・ルーマンが行っていたカードを使った情報整理手法も、基本的には同じ考え方であろう。
(註)実際、本書でもハイパーテキストは「ナレッジ・ベース」(本文ではノレッジ・ベースと表記)であると述べられている。いわゆるPKMと呼ばれる営みが目指しているのが知識活動を支えるためのベースキャンプ作りであろう。
私たちのアイデア、情報は複雑な関係性を持っている。それをできるだけ「そのまま」保存しておくには、階層型ではなくネットワーク型の方がいい、という議論は本書において議論の萌芽がある。ぜんぜん目新し話ではないわけだ。
一方で、おそらくそうした話を聞いて「すごい、新しい、新時代の発想だ」と感じた人も多いだろう。私はこの点に問題を感じている。かつて存在した議論が風化してしまっているのだ。
だとすれば現代の私たちが手にしている一見ハイパーテキストのようなツールは本当にハイパーテキストと呼べるのだろうか。それとも、真のハイパーテキストは、何かしらの脆弱さを備えている可能性もある。
ともあれそれは現代の私たちが抱える課題であって、本書の射程ではない。本書は単一の流れしか扱えないテキストではなく、さまざまな流れの可能性を扱うことができ、情報だけでなくその情報を意味付けるコンテキストも一緒に保存できる夢のような装置としてハイパーテキストのビジョンを描いている。
そうしたハイパーテキストは、私たちにとって大きな意義を持つ。
Webが実現した現代において、本書を改めて検討する意義はここにあるだろう。つまり、我々が手にしたツールははたして「思考のメカニズムを促進する思考のエンジン」になりえているだろうか。もし、そうでないとしたら一体どこに問題があるか。
その問題意識を踏まえて、次章も読んでいきたい。
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