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『思考のエンジン』第二章「ライティング・エンジンとしてのワードプロセッサー」
第二章のまとめです。
この章には何が書かれているのか?
中心となるのはデリダの思想、およびそこから発展される著者が見た「書く」という行為への眼差しとなる。
前章では、タイプライターが「手書き」とは違う書き方のスタイルを求めていたことが紹介されたが、本章ではそこに穴があったことが確認される。以下のような点だ。
西洋の中心的な考え方において、手書きは話し言葉(パロール)を書き写したものでしかなかった。中心にあったのは話すこと・音声であり、書き言葉はそれを転写したもの、つまり劣化品であった。当然、その生成過程もすでに存在している「話し言葉」を書き写すだけの機械的な体験に留まる。
タイプライターを使ったライティング行為は、そうした閉塞性を打破するかのように思われたが、その使われ方があらかじめ決まっている「書くこと」に向けて部品を調整していくというスタイルである限り、前述した「書くことは劣化品でしかなく、機械的な作業」という構図からは抜け出られていない。
ここで問われているのは「書く」というプロセスにおいて何かが生じているのかどうか、ということだ。
著者が批判しようとしているのは、超越的に存在している何かがあり、書くことはそれに従属する行為でしかない、という見方である。そうではなく、書くことを通して何かが生み出されているような、そのような生成の感覚があり、その感覚は単なる功利や効率を超えて、書き手自身に生の喜びを与えるものである、という主張が示される。
そこで音声中心の手書きはでなく、タイプライターでもない、ワードプロセッサーを使ったライティングに生成の可能性を見出して、次章へと続く。
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