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『思考のエンジン』第八章「プロセスとしてのテクスト アウトライン・プロセッサーを使う2」のまとめ

『思考のエンジン』第八章のまとめです。

この章には何が書かれているのか?

引き続き、著者の実際のリライティングが進められていく。第六章までは思想的な話が多かったが、本章と前章は実際的な話題が多く、自らの実践に活用できる内容だと言える。

たとえば、著者は開いたアウトラインを眺めて、特定の項目は(他に比べて)項目数が多い、という理由でその部分の手入れに入る。そこでは意味内容は考慮に入っていない。単に「数が多い」ということだけが、その手入れに入る理由である。非常にフォーマリズムな視点であろう。

しかし、だ。

たしかにそうした形式の乱れ、歪みは「読む」という体験を考えたときに都合がよくない。よって「よい文章」に仕上げ直すためには、まず形式に注目するというのは非常にまっとうな判断である。

その他、文章の「流れ」に注目して、「構造」を整える話も出てきており、前章で指摘された「階層構造の検討」と「話の流れの検討」の両方が行われていることがよくわかる。


そのような実際例を踏まえた上で、著者はこうした構造的な整理を通して作られる「よい文章」とは何か、という点を再度検討する。

形式的なものは、西洋中心主義の流れを汲むものであり、たとえその構造がイデア的なものを現前させるという硬直的なものでなく、プロセスにおいて構築されていく生成的なものだとしても、やっぱり「形式」=「権威」にすがっているのではないか、という反論を自らのプロセスにぶつけるわけだ。

たしかにポストモダンにおいて、西洋中心主義は「脱構築」という形で批判された。しかしその脱構築もまた一つの論理で整えられていたことを考えれば、論理的形式を捨てればいいんですよね、という単純な話にはいかないことがわかる。デリダはその点すらも徹底しようとしたと思われるが、その試みがどこまで機能していたのかは私には判断がつかないし、皆がその水準で仕事ができるとは限らないだろう。

論理的形式の強力さは、西洋中心主義への信仰とは別に存在する、と捉えた上で、論理的形式を使っていくということは──私には少々詭弁めいて感じられるが──一応は可能な筋だろう。

その上で、著者は最後に日本文化に目を向ける。

そもそも脱構築というのは、強力な二項対立(二つの項があり、片方が優れていて、もう片方は劣っているという見方)に抗するための言説として用いられたわけだが、はたして日本に(日本文化に)そのような強力な二項対立は存在しているのか、と著者は問う。

解体すべき体系や構造がないのに「脱構築」だと叫んでも虚しいだろう。むしろ著者は脱構築というプロセスに、「コンストラクティブな行為を行う自分に批判的な態度になること」という姿勢を見て取っている。

私になりにパラフレーズすれば、無自覚に何かを構築するのではなく、何かを構築しようとしているときに自分に影響を与えているさまざまなものにまなざしを向けよ、という警句だ。

当然そのまなざしは、結果としての成果物よりも経過としてのプロセスに注意を向けることになるだろう。それをより強調すれば、「現象学としてのライティング」のような観点を立ち上げることもできそうだ。

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