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『思考のエンジン』第九章「迷宮としてのデータベース」のまとめ

『思考のエンジン』第九章のまとめです。

この章には何が書かれているのか?

大きく二つの論点がある。一つは、知識の形式について。もう一つは、迷宮としての書物という概念について。

私たちの思考は知識の形式に強い影響を受けるが、その形式は一般的な意味での「テキスト」、つまり文字が一方向に流れていく形式で表せるとは限らない。

そもそも私たちの「読む」という行為自体が、そんなにまっすぐなものでない。目次や註を行ったり来たりしながら読むことは珍しくないし、「この著者はちょっと大げさに言う人だから、割り引いて受け取ろう」などとメタ的に情報を処理する場合もある。何かを読みながら、それと関連する別の事柄を思い浮かべることもあるだろう。ページをめくる手を留めて、脳内で著者の議論に反論を組み立てることだってある。

著者は「人間がテキストを読む行為は、ある種の脱構築と言える」と述べているが、この点はよくよく吟味する価値がある。

で、その上で参照されるのが前田愛による「迷宮としての書物」という概念。この概念は、迷路と対比する形で論じられている。

  • 迷路的テキスト(閉じた書物)

  • 迷宮としてのテキスト(開かれた書物)

迷路的テキストとは、ようは「ショートカット」可能な読み物ということで、一度最短ルートを把握したら、以降は直線を進むのと変わらないタイプの書物を指す。現代で言うならば「コスパがよい読書」が可能な書物だ。

一方で迷宮としてのテキストというのは、プロットがなく、はじめから終わりまでをただ体験するタイプの読書で、「美しい感じが残ればいいという絵画的な、因果論的な時間の支配とは距離がある読書ユートピア」という説明が為されている。この説明はどこか、千葉雅也の『センスの哲学』を彷彿とさせる。

個人的には、「迷路的テキスト」というのはつかみやすいのだが、「迷宮としてのテキスト」というのがイマイチしっくりこない。その点は、後半のデューク・エリントン・データベースの解説を見ていくとよりくっきり浮かび上がるだろう。

デューク・エリントン・データベース

著者は、アメリカにおける黒人音楽の受容があまりにもステレオタイプではないかという観点を立ち上げるために、デューク・エリントンの音楽活動の全体を一つのデータベースに取り込んだ。

使われたのは「Q&A」というSymantecのソフトウェア・アプリケーション。そこにエリントンのデータを入力し、インテリジェンスト・アシスタントという自然言語で入力すると、データベースのビューを生成してくれる機能を使って、新しい視点を見出すことができた流れが紹介されている。

エリントンの音楽活動に関するデータは、はじめから存在したものだ。言い換えれば、これまでのエリントンに言及する言説においても同じものが使われていた。今回新たにエリントンに関する情報が増えたわけではない。にもかかわらず、これまでとは違った視点を作ることができた。

そこから「迷宮としてのデータベース」という考え方へと発展していく。

ようは、こういうことだ。ある分野に関するデータをすべて集めた情報体があるとする。書籍Aも、それと反対の主張をする書籍Bも、データはその情報体に依っている。そういう情報体を想像するとき、それが迷宮としてのデータベースになる。

つまり、すべての語り口の可能性を内包するデータベースがあり、それぞれの人は独自の視点=切り口でそこからデータを切り出し、一つのストーリー(本書ではディスコース)を作り出すことができる。そういう存在をイメージさせるのが「迷宮としてのデータベース」である。

これは現代におけるネットワークの話であり、私の理解で言えば、全体としてのネットワークと、そこから切り出されたツリーという構造に相当するのだろうが、その点はまた次章で深められるだろうからここでは置いておくとして、気になるのは「迷宮としてのテキスト」と「迷宮としてのデータベース」の関係である。

「迷宮としてのテキスト」では夏目漱石の小説が例に挙げられていた。「迷宮としてのデータベース」では、デューク・エリントン・データベースをベースに考察が進められていた。

この二つは「開かれた書物」という同じ表現でパラフレーズされているわけだからして、同種の性質を持つものと言えるだろう。そこがどうにも腑に落ちない。

迷宮は、入り口から入り、最深部までたどり着いたら今度は逆向きに入り口に戻っていく。ショートカット不可能な、全体を体験するものとして確認された。たしかに、そうした素晴らしい書物はある。しかしこれが「開かれている」というのはどういう意味においてなのだろうか。

また、さまざまな切り口のベースになるデータベース(今ならインターネットにおける情報ネットワーク)は、全体を体験することがそもそもできないものだし、そうする必要もないものとして設計されているように思う。つまり迷宮感があまり感じられない(ただし迷路でもない)。

おそらく私の「開かれた」や「迷宮」についての理解が及んでいない部分があるのだろう。また、そこがうまく腑に落ちなくても、全体として語られていることは、現代のIT状況を見ても実に的確だというのが正直な印象である。


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