生きることが苦と悟った後、自死しないのはなぜか?
執着せず、縛られない生き方に憧れます。
らるです。
今日は、仏教の話です。
仏教には、一切皆苦なんて言葉もあるように
「苦でないものはない」
と捉えています。
「生きていて、すべてが苦になるのなら
生きてる意味なくない?」
と思ってしまうのも当然でしょう。
私もそういう疑問がわきました。
ですが、ブッダも悟ったあと
生きていて、その教えを伝えていました
それはなぜなのでしょう?
その答えは「遊び」でした。
悟った状態というのは
「執着から解き放たれて」います。
ですから、わざわざ、
生を嫌悪することもない
ということです。
そうすると、そのあと
肉体が滅びるまで何をしているかと言えば
存在することをただ楽しんで
いるわけです。
先ほど、悟った人は「遊んで」いる
という話をしましたが、
ここでいう遊びというのは
こいうものなんです。
たしかに、言われてみれば
遊びの定義って、まさにこういうものですよね。
やってもやらなくてもいいし
得になるわけでもないし
必要なわけでもない
ただ、楽しいだけ
つまり、ブッダが教えを広めていたのも
「遊び」の一種だ、ということなんですね。
「生」というものも含めて
何にも執着せず
何にも縛られず
ただ、楽しんで、遊んで過ごす
そんな生き方に憧れを感じつつも
ちょっと寂しい生き方にも感じてしまうのは
私が凡夫であるからなのでしょう。
何かに強い執着を持って
燃えるように生きる様子も
それはそれで美しいと感じてしまいます。
この気持ちに折り合いがつくのは
もっと先のことになるのかな?
…などと考えつつ、今日の記事は終わります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?