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生きることが苦と悟った後、自死しないのはなぜか?

執着せず、縛られない生き方に憧れます。
らるです。

今日は、仏教の話です。

仏教には、一切皆苦なんて言葉もあるように

精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦とはこの意であるとされる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%88%87%E7%9A%86%E8%8B%A6

「苦でないものはない」
と捉えています。

「生きていて、すべてが苦になるのなら
生きてる意味なくない?」

と思ってしまうのも当然でしょう。

私もそういう疑問がわきました。


ですが、ブッダも悟ったあと
生きていて、その教えを伝えていました

それはなぜなのでしょう?


その答えは「遊び」でした。


渇愛を滅尽して執著から離れた解脱者たちにとっては、生を愛好する必要はないけれども、それを嫌悪する必要もないからである。
 ならば、彼らは人生の残りの時をどのように過ごすのか。渇愛を滅尽し解脱に至った者たちは、存在することを「ただ楽しむ」のである。それはもちろん、「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」ような、執著によって得られる「楽しみ」ではなく、むしろそこからは完全に離れ、誰のものでもなくなった現象を観照することによってはじめて知られる、「最高の楽(paramasukha)」と言うべきものだ。
 対象への執著がなく、利益が得られるわけでもなく、必要が満たされるわけでもないが、「ただ楽しい」。そのようなあり方のことを、「遊び」と呼ぶことは許されるだろう。仏教では、何ものにもとらわれない自由闊達な仏の境地のことを「遊戯三昧」と形容するが、ここで言う「三昧」は、「集中」というより「まじりけがない」というほどの意味。つまり、解脱者たちの生きる時間は、その本質として、純粋な「遊び」であるということだ。
 したがって、彼らの一部が利他行の実践へと踏み出すのも、もちろん「遊び」ということになる。

魚川 祐司. 仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か― (p.163). 新潮社. Kindle 版.

悟った状態というのは
「執着から解き放たれて」います。

ですから、わざわざ、
生を嫌悪することもない
ということです。

そうすると、そのあと
肉体が滅びるまで何をしているかと言えば
存在することをただ楽しんで
いるわけです。


先ほど、悟った人は「遊んで」いる
という話をしましたが、
ここでいう遊びというのは

対象への執著がなく、利益が得られるわけでもなく、必要が満たされるわけでもないが、「ただ楽しい」。そのようなあり方のことを、「遊び」と呼ぶ

こいうものなんです。

たしかに、言われてみれば
遊びの定義って、まさにこういうものですよね。

やってもやらなくてもいいし
得になるわけでもないし
必要なわけでもない

ただ、楽しいだけ


つまり、ブッダが教えを広めていたのも
「遊び」の一種
だ、ということなんですね。


「生」というものも含めて
何にも執着せず
何にも縛られず
ただ、楽しんで、遊んで過ごす

そんな生き方に憧れを感じつつも
ちょっと寂しい生き方にも感じてしまうのは
私が凡夫であるからなのでしょう。

何かに強い執着を持って
燃えるように生きる様子も
それはそれで美しいと感じてしまいます。

この気持ちに折り合いがつくのは
もっと先のことになるのかな?
…などと考えつつ、今日の記事は終わります。

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