見出し画像

その『善い』は、ホントに『善い』の? ニーチェ哲学『ルサンチマン』について

前回に引き続き
『NHK「100分de名著」ブックス 
 ニーチェ ツァラトゥストラ 』
を基にして

今日はニーチェ哲学のキーワード
紹介します。

ルサンチマンとは

フランス語でressentiment

「繰り返し」の意味のreに
「感情」の意味のsentiment

感情が振り払えす反復する
というところから
「うらみ・ねたみ・そねみ」の意味
になります。

これがニーチェ哲学において
克服すべきものの一つ
なっています。

なぜ、ルサンチマンが問題なのか
と言いますと…

「自分を腐らせてしまう」からです。
よりニーチェに即していいますと、
悦びを求め悦びに向かって
生きていく力を弱めてしまう
ことが
まず問題です。
そして「この人生を自分はこう生きよう」
という、自分として主体的に生きる力を
失わせてしまう
ことが
二つ目の問題点です。
ルサンチマンという病気にかかると、
自分を人生の主役だと
感じられなくなってしまう
のです。

ルサンチマンに囚われると
・自分を腐らせてしまう
・悦びに向かえなくなる
・主体的に生きられなくなる
→自分が人生の主役と感じられなくなる

これは、苦しいですよね
生きがいがなくなってしまいます。

ニーチェのキリスト教批判

ヨーロッパ文化の基礎「キリスト教」
ルサンチマンから生み出されている

これがニーチェがキリスト教を
批判する理由です。

キリスト教の生まれは
当時のユダヤ人の
厳しい状況に由来します。

ローマに支配され
実際に反抗することは不可能
そのときに生まれたのがであり
現実で反抗できない分
観念の中で反抗をしました。


つまり、
「金持ちや権力者は悪い、
 死後、地獄に落ちる。
 私たち貧しいものは
 神の導きのもとで天国に行ける」

という風に考えた、ということです。

この価値観が善悪の基準を
ひっくりかえしました。

「神に従う人間が善い」
これだけが「善」の基準になりました。

すると、何がまずいのか

神様に従う人間は、
ひたすら「善いこと」しかしない
正しい掟が決まっているから
創造的な試行や実験は
全て禁止
され、
心清く生きることばかりがめざされる。
そこから生まれるのは
「無難な善人」でしかない。
もともと人間には
貴族的なところがあって、
自発的に新しいことを試し
さまざまなものをつくり出そうとする
創造性があるはずなのに、
キリスト今日はそうした
創造性をことごとく抑圧してしまう

キリスト教が、
支配されていた人の心を救ったのは
確かなことです。

ただ、一方で
絶対的な「神」の掟が定められることで
人間の創造性が縛られている

これでは、
ルサンチマンに囚われているのと同じで
自分が人生の主役と感じられなくなります

だからこそ、
元々の善悪の意味に立ち戻るべきだ

「神」の基準ではなく、「自分自身」の
「カッコいい、おもしろい、わくわくする」
に従うべきだ

そう、ニーチェは言うわけです。

あなたは、
他人から「善い」と思われたいですか?
あるいは
社会的に「善い」人でありたいですか?

それとも
自分自身で「善い」と思いたいですか?

どちらがあなたにとって大事でしょうか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?