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他人の言う「良い」に惑わされるな 『道徳の系譜学』ニーチェ

こんにちは、らるです。

道徳の系譜学は以前読んで
私自身でも記事を書いてきました。

先日、ちょっときっかけがあって
見直す機会があり、そのとき
「時間を置いたせいか忘れちゃってるなぁ…」
と感じた部分があったので
改めて思い出すために書いてみます。

道徳の系譜学の目的

この本は、今、世の中に出回っている
「人の善悪」がおかしい
ことを指摘しています

これを言うために
道徳の系譜学では3つの論文で
説明をしているわけです。

通常「良い」という言葉は
「性能が高い、優れている」
という
意味で使われます。

例えば、スマホであれば
容量が大きいとか
処理速度が速いとか
沢山のアプリに対応している
とか

そういったものが「良い」
なるわけですが

なのに、人間の場合は違います。

物に対する意味と同じように
人間に対する「良い」を考えてみれば

性能が高い
他よりも上にある 
…と「良い」はずなので

お金を稼ぐのが上手とか
権力を持っているとか
足が速いとか

そういった特徴が
「良い」に該当するはず

ですが
私たちはこうした人たちを
良い人とは言いません。

そうではなくて
周りの人のために
行動する人を「良い人」と言います。

ようは、
「良い」がその人の本人の視点ではなく
「良いことをしてもらった人」の視点で
人間の良い悪いが語られる
のです。

これは、本来の「良い」…
「モノ」に対して使われる「良い」の
意味からすると、離れてしまっています。

この歪みがキリスト教道徳の
ルサンチマン=怨恨の念から
発している
というのが
ニーチェの主張なわけです。

周りの人が良いと言ってくれなければ
良い人にはなれない
わけです。

ここからは、
久しぶりにニーチェに触れての
私自身の考えです。

自分が「良い」かどうかが
他人に左右されている状態というのは
苦しい
ものだと、私は思います。

私たちは、本能的に
より良い状態でありたいと望みます。

ですが、その「良い」かどうかが
他人に支配されているとすると

他人がどう思うか、というのは
自分にはコントロールできないものですので
つまり、「良く」なれるかは
自分にはコントロールできない

ということになります。

より良い状態になりたいのに
それを自分ではコントロールできない

運よく、他人から「良い」と
されたとしても、それがいつ覆るかは
わかりません。

無力感を感じてしまうでしょう。

この不毛な状態から脱する方法は
ニーチェも言っている通り
「力への意思」に従うことでしょう。

他人基準の「良い」に捕らわれるのではなく
自分基準で「良い」を決めて、それを求める 

自分が何を欲しているかを問い続け
見つけた答えを追い求め続ける。

そうすれば、無力感から脱し
高揚感に満ちた、人生を送れるように
なるのではないか…

私は思っています。

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