【文学論】文学と太陽 序論①
文学とはつまり、太陽のようなものである。作家達は、その光を上手く調整して、心地の良い陽だまりを作って、読者をそこに招待する。安全で暖かい場所。その物語の中で、読書達を遊ばせること。多くの作家達にとって、文学とはそういうもので、より魅力的な筋書きとか、適切な比喩とか、人々を引き込む書き出しについて語る時、我々は太陽の光の操り方を話しているのだ。
太陽は、我々にとってなくてはならないもので、全ての源泉であり、我々がそれを受動的に浴びている限り、他の何よりも我々に優しい。しかし、それは、あくまでも我々が、この地上に留まったまま、ただ遠くに輝く太陽を、その恩恵に感謝しながら眺めているうちは、という留保つきである。
文学の歴史に横たわる夥しい屍体の数々。地上の人々は、その人々を指して、文豪だの天才だのという。それは、彼らにとっては何の意味もない賞賛に過ぎない。何故なら人々は、太陽に近づこうとして、道半ばにその熱に溶かされた彼らと、太陽光を調節するガラス屋根を作って、皆に快適な公園を作ってくれる職人達との区別がついていないからだ。
太陽に焼き殺された彼らのうちの一部は、初めはそういう職人として産まれたものもあった。より上手な一文を、含蓄に満ちた物語を思いつくために四苦八苦していた時期もあった。しかし、不幸にもある日、彼らは気づいてしまったのだ。「果たして、太陽とは一体なんなのだ?」
かくして彼らは、太陽を上手く使う職人から、太陽に向かって突き進む冒険者へと変わる。人々は、太陽の暖かさに騙されている人々は、彼の行動を理解出来ない。彼は狂人と嘲られ、彼の書くものは難解で、無意味な物だと謗られる。しかし、理解出来ないものはとりあえず賞賛しておこうというお決まりの態度によって、彼は「文豪」という、おふざけの襷をかけられる。
そんな時、彼らは世間の嘲弄に憤るか?答えは否である。何故なら、彼らには最早、太陽以外の全てが目に入っていないからである。あんなに優しかった太陽は、自分に向かって来ようとするものに対しては容赦なく牙を剥く。その皮膚を焼き、眼を焦がし、あらん限りの妨害を仕向ける。だから、冒険者達は、太陽への突進に全神経を向けるために、他の全てを棄て去らざるを得ないのだ。
太陽は、様々な言葉で言い換えられて来た。曰く「真理」、曰く「美」、曰く「神」。今まで数多の者達が、その表面に指一本でも触れるために、無謀な戦いを挑んで来た。その結果、太陽まで辿り着いたものはただの一人もいない。我々が今、「純文学」と呼んでいるものは、作家達が太陽に焼かれながら、苦し紛れに撒き散らした灰に過ぎない。そういう意味では、何一つ完成品などないのだ。
それでは、我々の眼前に、無残に積もり積もったこの夥しい灰燼。それは無意味なのだろうか。
私は、この文学論の序論として、まずはそのことを考えて行きたい。
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