心理学「ジョハリの窓」が私の考えを変えた話

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これは最近正確性が高くなっているWikipedia先生。


当時小学生だった私は、ジョハリの窓を知った。これを見て「自分のことを正しく知ってるのは自分だけだと思っていたけど、そうではないのかも」と思うようになった。

それは傲慢だったとか視野が狭かったという反省を込めた考えではなく、いまでも正確性を求めるならやはり自分のことは自分がよく分かっていると思う。

しかし、「自分の知らない自分」の存在を認識したことで視野が広がったことも事実だ。自分の笑顔は他人の方がよく見ているし、自分の動きは鏡が無いと見ることができない。特に耳や顎なんかは鏡を使わないと存在を確認することすらできない。

でも、他の人なら全身を見ることができる。無意識にとっている行動を意識してくれることすらある。

自分っぽくないと思っているものに対して「これ、あなたらしいね」と言われたとき「あなたらしい」と言ってくれる他人は本当に「あなたらしい」と捉えている。これはたまたま意見が噛み合わなかっただけで、「自分らしくない」と思っている自己も「あなたらしい」と思っている他人もどちらも真実である。ゆえに、「らしくない」と「らしい」は同時に存在する。


自分が思った通りのことだけが正しいのではない、というと肯定する人は多いと思うがそれを実行するには難しい。

たとえば、先述した「らしい」「らしくない」は両方を同時に受け入れるのは難しいと思う。なぜなら、この二つの意見は正反対のものであるし、自分の考えはなかなか変えられないからだ。

ジョハリの窓を知る前は「らしくない」と思っていたものを「らしい」と判断されたとき、その人は自分のことを理解してくれていないと思っていた。でもそれは違くて、その他人は「自分の知らない自分」を知ってくれている人だから、実は自分のことを理解してくれているのだと気付いた。

だから、「自分らしくない」けど「自分の知らない自分らしい」のだと知った。この二つの枠は、同じ窓の中でも別々に分けられており同時に存在することができる。それ以前の私は、窓の枠が一つしかなくて「自分の知っている自分」しかなかったから受け入れることができなかった。

それ以降、他人から(自分が思っていない)自分のイメージを言われた時でも、そういう一面もあるのかもしれないと考えられるようになった。

以上が「ジョハリの窓」が私にもたらした変化である。


ここで留意しておきたいのが、たとえ「あなたが好きそうなもの」をもらって気に入らなかったとしても、それは「もらったものを好きだと思えなかった自己」のみが真実であるということだ。「好きなもの」は少しの違いで「好きとまでは言えないもの」になる。そして、その違いは他の人には理解されにくい。好みは自分にしかわからない。

なので、私は選んでくれたプロセスとか気持ちを「好き」と言いたい。やはりプレゼントは気持ちだ。

好きなものは見失うな。流されるな。気に入らなかったらそれで良い。それがあなたです。


「自己を受け入れ、正反対のことを言うかもしれない他人も同時に受け入れる」難しかったけど、考え方次第ですぐに解決した。

めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。