私はいつから優しい人になったのだろう

私は昔から、私自身を優しいと思っている。でも、それは迎合することで相手から得られる評価としての「優しい」ではなかったはずだ。迎合することが悪いこととは限らないが、私は嫌なことは嫌だと言った。

中学生女子がよくやる「一緒にトイレ行こう」は、トイレに用が無ければ基本的に断っていた。たまに内緒話的なものをするために誘われることもあったので、それで着いていくことは稀にあった。


昔から「良い人」と言われたら、「(相手にとって都合の)良い人」なのだと思っている。私はきっと、そういう人間ではない。だって、そうなりたくないと思っていたんだもの。そのコミュニケーションを続けたところで苦しくなる未来が見えていたから。


私は、弱者の気持ちも強者の気持ちも分かっているつもりだ。しかし、私は私が経験した気持ちや誰かの「本当の言葉」から知った気持ちしか分からない。

最近、死にたいと思うときの気持ちが分かる様になった。これは必ずしもネガティブな変化ではない。知らないことは怖いことなのだから、知れたことはプラスなのだ。もし今度もっと強く死にたいと思ったとき、どのように乗り越えれば良いのか、どのような世界の見方をすれば楽になるのか、客観的に判断することが出来るだろう。

そして、この気持ちを味わったことで、他の人と共有できる感情が増えた。もし誰かに死にたいって言ったとき、死なないでよ!だけ言われてもきっと辛いんだろうなと思った。だって、既に本能には生きろって言われてるのに、理性では死にたいと思っているんだもの。死なないでよ!って自分が自分に言ってるんだもの。

こういう、以前とは相反した感情を持った時、「前は違った」ことを忘れないように努めている。なるべく色んな可能性に配慮したいのだ。その上で、私が相手にとる行動を決めたい。


人は楽しいとき、自分のことばかりが目に入る。ゾーンに入るみたいな感じで。でも、それはもしかしたら誰かの犠牲の上に成り立っているものである可能性がある。

全員が楽しいと思う状況は絶対にある。けれど、全員が必ずしも楽しいとは思っていない状況も絶対にある。みんなの意見はほとんどの場合、合議制という名の多数決で決められるからだ。

そのとき、異端になったもの=みんなと違う意見をもってしまったものは声を上げても弾圧される。もちろん、みんなが気持ちよく過ごすためには妥協が必須である。

妥協(まあいいか〜)どころではなく、弾圧(本当は嫌だけど合わせるしかない)になっているとき、「誰かの犠牲」は発生する。


少数意見側にいて多数意見に妥協できない場合でも、私は気にしないけどねという演技が出来る人間は、「良い人」「優しい」という言葉をかけられる。

でも、自己犠牲の上に得た「優しい」という評価は嬉しいだろうか?その言葉は褒め言葉であるから、それなりに嬉しいだろう。それで妥協出来なかったことを妥協出来る様になれるなら良いことだ。

しかし、自分の苦しみが妥協できなかったとき、優しいという一言でそれが片付けられるのは、辛いことなのではないか。私なら辛い。なにも分かってないんだな〜って思ってしまう。


そういうことが、ここのところ久しぶりに起こってしまい、少し辛くなったのです。そういう吐露がしたくて、ここまで書いてしまった。

私の優しさは、何か辛いことを引き受けることで発揮するものではない。自発的に、「やりたい」というポジティブな気持ちから生まれるものである。好きなひとたちに対しては、特に。

めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。