さあ考えよう

 現代において、教養とは、絶対的でないとはいえ、権威があるものとされている。だが、世の中で、教養のある人とされる人、すなわち知識人――専門家――とされる人たちは、どこか、薄っぺらいなあと感じてしまいます。

 例えば、アメリカのイエール大学の助教授Nは、なにも、理論意見を引っ提げているわけでもなく、詭弁を繰り返していたり、東京都立大学のM台教授に至っては、自分の長年やってきた援助交際の研究で得られた考え方が間違い(実際、援助交際をしていた人は、病んでいる人たちばかりだった)であることを認められず、一貫性を求めすぎたあまり、時代の変化に対応できませんでした。彼は、変わり身の早い日本人を批判していたので、一貫性を求めたのですが、一貫性が美徳とされた時代は過ぎ去り、絶対的な価値観があまりの速度でかわりゆくこの時代に対応できなかったのだと思います。彼は加速主義を提唱しておきながら、時代の加速に追いついていないのです。

 前提として、知識は、普遍的ではありません。日々、常識とは科学の異常な発達によって、変化していくのです。現代における教養は、特に文化においても、流行が高速で移り替わる現代において、一か月前に役に立った知識は、古びて消えていきます。教養というのは、陽明学的な言い方だと、「知行合一」といわれるとおり、せっかく、身についた知識も使わなければ、意味がありません。本も、生活に役立つ知恵があるかというと、ほぼ、知らなくてもいいような趣味の範囲でしょう。知って、それでなんになるのでしょうか。というようなもの、例えば、文学、アニメ、映画。役に立つといっても、文学少女、オタク、映画ファンの人と仲良くなったり、そういったことが趣味の女の子を落としたりすることくらいにしか役に立たないでしょう。
 文学マニアの君は、ここで、文学は役に立つのだというのでしょう。そこで、私なりに文学は役に立つという主張を調べてみました。
 
 とりあえず、見つけたのは、平野啓一郎のサイトです。彼は、

「文学は何の役に立つのですか?」と言われた時に、作家からの強弁としてこれまでよくあったのは、——非常にアーティスティックな態度ですが——「別に役に立たなくていいんだ、俺は役に立つものを書こうなんて思っていない、俺の表現なんだ」という言い方でした。これは一つの表明だと思いますし、僕はそう言うこと自体に意味があると今でも思っていますが、もう一方で、そもそも「文学は役に立つのか?」という問い自体にも一種の不思議さがあると思います。

 というのは、どんな新自由主義者でも、あるものを評価する時には、"役に立つ"かどうかというより、"価値がある"かどうかを問うはずです。僕たちがお金を払って何かを手に入れる時には、役に立つかどうかではなくて、お金に見合うだけの価値があるかどうかを考えるのであって、役に立つかどうかは、価値の中の一つの基準でしかない。役には立たないけれど価値があるものは沢山あります。そういう意味では、「文学には価値があるか?」と問い直されるべきなのかもしれません

文学は何の役に立つのか

と述べていますが、なんだか、サイトを眺めてみたのですが、役に立つのかの論点を価値があるのかにずらしているだけのようにしか思えません。役に立つのか、要するに「生活のなかで使えるのか」ということです。要するに、答えられなかったのではないでしょうか。
 では、私なりになんの役に立ちそうなのか考えてみました。

1 文学は役に立つ。
2 文学を好きな人は世の中の偉い人や賢い人に多い。女の子もおしとやかな子が多い。
3 だから、彼らと仲良くなるために本を読んでおく。

 私は文学を読む理由として挙げたいのは、これが理由(実際そうですw)ですが、文学を好きな人はえらい人が多い。これは確かにそうなのですが、これは実際に仲良くなって気づいたことなのですが、文学を読んでいるということで繋がるよりも、どの批評家を読んでいるかで繋がった人のほうが多いです。しかし、反論として、例えば日本の最高権力者岸田文雄首相と仲良くなりたければ、

ネットで拾った新聞

 やはり、文学。もしかしたら、岸田文雄首相と仲良くなろうと思ったら、文学は必要なのかもしれません。愛読書に、陸奥宗光の歴史書を挙げるところに首相の、勉強熱心さと知性を感じます。
 
 
 私は考えました。要するに本を読んでいれば、賢い人、偉い人とつながれるのだと。結局、教養というのは、大切なのだと。文学とは、社交の道具なのだと私は思います。しかし、読む文学も選ばなくてはなりません。世界文学とされているものを読むで十分だと思います。
 文学でどれを読めばいいかわからないという方に私がすすめるのは「自分の生き方を変える」読書です。おすすめについても書いていこうと思います。当然漫画も。
 文学について、語ろうとすれば、まず、文学を読むことで偉くなったと勘違いする底辺というのがいます。たいしたことない自分を癒すために文学を読む。なにか勘違いをして、自分はハイカルチャーを消費しているから、自分は実際は底辺だが、社会的階層は上であると、テキトウに読んだだけの「ディスタクシオン」を読んで言説します。本当は、自分に向き合って、外向きに人生を変えていかなくてはならないのに、ダメなほうの内向きに自己を成長させていって、ダメになるケースがそれです。

 さらに、ここで、では、本を読むことのデメリットはないのかと、聞く人もいるといると思います。

 あります。簡単そうなのを挙げると偉そうになるということ。これは、知識人によくある理論だけしかなく実践していないのに、傲慢なタイプの典型みたいな感じです。

 重要なのは、知力とは人間の構成要素の一要素に過ぎないということです。知力がある程度あるから、世の中でえらいとされる人には学歴があるのでしょう。しかし、学歴だけで、知性を測ることはできるのでしょうか。私はそこは不審です。理由としては、高い学歴であっても、おいおいといった人もいるからですし、単語の暗記とその読解の確認が試験の内容でもあるからです。ですが、知力を一定の教養があるのだという指標でみれば、学歴を採用するのは、この世界のなかでは、最善の回答だとは思います。理由は、受験勉強において、一定の知識をつけることは知識を増やし、知識を増やせば、思考の幅が広がるからです。
 話に戻ります。

 
 
一番、傲慢なのは、哲学者です。彼らは、自分の育て上げた哲学で、世界を、自分からの位置からしか観察していないのに、それを、客観的世界に押し付ける傲慢な学問です。詳しくは、「偶然性・アイロニー・連帯」を参照。
 その点、それは、時代によって変わる反哲学の流れを作ったニーチェは本物かもしれません。

 学者のいう科学とは要するに真理をみつけだす人のように思われるかもしれませんが、科学のいう論文とは客観的に書こうと努力した意見書に近いのです。よく、○○(偉い人)がこういったんだといったというようなだけの感想文をこれは教養があるというような感じでいうような人が多いでしょうが、これは詭弁にすぎません。有名なのは、チャーチルの「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては。」というような言葉を出して民主主義を擁護するような人とか。なら、「なぜ?」とか「どの政治体制と比較して?」というと、述べられない。よく箴言を出して、納得性を持たせようとする人もいると思いますが、中身は、虎の威を借る狐なのです。

 私たちのよくある頭の良さとして「東大王」なんかが出てくるかと思います。彼らは、難しい漢字。難しい高校の教育を発展させたかのような官僚的試験を高速で回答する瞬発力。しかし、それは思考力なのでしょうか。頭の良さなのでしょうか。クイズに答えることのできる能力が知性なのでしょうか。違います。この知識は知っているというような知識確認、計算能力といったものを答えているだけに過ぎないのです。考えて自分の答え(意見)を出すということは、一般論、紋切り型のものではなく、固有の自分の意見というものを持っていなくてはなりません。自分で考えて決断していく。それをするために資料を集めていく。大学教育はいわば、自分で考えることを練習する場所です。行動は自分でやらなくてはなりませんが。
 仏教では、自燈明といいます。しかしながら、ここで、よくない例が思想に取り込まれてそのなかでしか思想ができなくなるという例です。これでは、その思想という位置からしか世界を見ることができません。これは、左翼系にいえるのかもしれません。

  

 知の世界を覗けば、世の中の知識のあると名乗る胡散臭い連中というのも現れます。そこで、その人たちの倒し方を伝授しましょう。まずは、「無知の知」です。無知の知は、ソクラテスが切り開きました。偉い人の名前出しやがって、ふざけんな論理性のかけらもないと思った人もいるかもしれませんが、私は、教養のある、要するに知識のある人たちを倒す最高の道具として無知をすすめるのです。
 「わからないから説明してよ」、「なんで」「どうして」、「ここはどうなんです」。学がなくても、なんでと聞きまくれば、相手が偽物であれば、必ず、倒れます。徹底的にソクラテス問答を繰り返すのです。
 教養で倒せばいいのではと反論する人もいそうですが、それでは、複雑になって、相手も自分も消耗してしまいます。
 ソクラテスのように、処刑されない程度にしましょう。

 もっとも、私がここで言いたいのは、知識がなくても、あっても、考えるということをしてほしいということです。プラトンは、奴隷の定義を、「ものをいう道具」と定義しました。私が言いたいのは、下手でもいいから考えろです。思考法や、誰かの教える方法論では、他人の思考を語っているだけで、自分でではありません。そういう人がそれでうまくいかなければ、その人のせいにするだけで、自分で考えてやったわけでもないので、何も反省することができないのです。私は、賢いとは、その下手でもいいから思考をした人だと思います。方法はありません。答えもありません。答えらしいものがあるだけです。効率のいい方法もありません。あなたが自分で考え自分で選び、うまくいかなかったら、検証ではありません。PDCAサイクルなんて馬鹿な真似だけはやめてください。失敗したら、勉強してください。実践してこそ知識なのです。言葉に騙されてはいけません。言葉は幻想なのです。大切なのは形をつくりあげることです。言葉は道具であって、それの奴隷になってはいけません。聞いてください。都合のいい言葉にほいほい誘われてはいけません。決して、楽なほうに流されないでください。ちゃんと、自分で合理的なデータを探して勉強し、社会的ななんの論理もない常識や信念に従わないでください。きっと、それがわかったとき、人は自由になるのではないでしょうか。人間は幸福のために生きるといいますが、私はそうは思いません。幸福ではなく、感情。特に自分でそれがいいと思えるものを選んでいかねばなりません。そのとき、知識、言葉に飲まれず、思考する。それがきっと、私の目指す私の世界なのです。

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