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【レビュー】『女帝』の後に『グレート・ギャツビー』を読む

これは都知事選があったこの夏、20万部以上売れて大きな話題となった『女帝 小池百合子』(石井妙子)のレビューである。感想を連ツイするうちに、膨らんでいった違和感を文章にした。

政治家評としてはともかく、人物を描けていないのではないか、というのがわたしのこの本に対する疑いだ。書き手のモノサシは対象(小池百合子)を測るうえで短すぎないか、目盛りが粗すぎないか、そして、そのモノサシで測れないものを安易に切り捨てていないか。

粗雑なものを読んだ、という印象はない。むしろ、練りに練られた文章を読んだのだと思う。だけど、その洗練の過程で、隠されたものがあるのではないか。それがわたしを居心地の悪い思いにさせるのではないか。

多くの人に好意的に受け止められている『女帝』への、ささやかな違和感を書いていこうと思います。

学歴詐称を「人間の在りよう」として問題視する著者

『女帝』は、前半で小池百合子の生い立ちと学生時代を描き、後半で政治家としての小池の活動を振り返る。様々なエピソードが出てくるが、最も重視されているのは学歴詐称疑惑である。政治家の学歴詐称は公職選挙法に抵触するが、この本では違法行為であるという意味を超えて、過去を嘘で塗り固めてきた小池百合子という人物を象徴するエピソードとして扱われる。著者の石井妙子は以下のように言う。

学歴など政治家の実力と関係がない、と語る人がいる。そのとおりだと思う。大学を出ていなくては政治家になれない、などと思ったことはない。(…)そうではなくて、出てもいない大学を出たと語り、物語を作り上げ、それを利用してしまう、彼女の人間としての在りようを問題視している。(…)公職選挙法を持ち出すまでもなく、その罪は問われるべきであろう。(p.423、太字処理はみのわ)

正直言って、政治家としての活動を描いた後半部は、あまり読み応えがない。「公人」になってからの話だから、自然と目新しい話は少なく、石井が取材成果として並べるのは、小池に対する周辺の評言ばかりだ。ざっくり言うと、悪口ばかりが並んでいる。それに比べて、小池の生育環境や、有名人になる前の「素顔」が明かされる前半部の記述は、多くの読者にとって「知られざる事実」であり、独自性がある。

とりわけ「第二章」は重要だ。小池の学歴詐称が疑われる「カイロ大時代」の話だからだ。ジャーナリスティックな独自性という意味でも、小池のカイロ時代のルームメイトである早川玲子(仮名)の証言で構成される第二章は突出している。小池の「人間としての在りよう」を見つめる石井にとって、早川の証言が大きな意味を持ったことは間違いない。

石井は「第二章」で、小池の「素顔」をどのように描いているだろうか。

証言者が語る小池百合子の「素顔」

「第二章」を細かく見てみたい。ルームメイトは強力な証言者だ。小池はシェアするアパートの部屋に多くの男性を招き、早川もそれに立ち会っていた。小池はその部屋で社交も生活もしていたわけで、早川は小池の表の顔と裏の顔(素顔)のコントラストを見ていたことになる。

まず、早川の証言で、小池の学歴詐称疑惑が決定的なものになる。彼女は小池のアラビア語の書き取りノートに並ぶ、ジグザグに乱れた文字を見て、語学力の低さに驚く。部屋では一言もアラビア語を話したことがなかったという。カイロ大で落第した小池が、同じアパートに住む男性教授の部屋に押しかけて、冷たくあしらわれた経緯も語られる。

早川の証言は、「芦屋のお嬢様」という、小池がまとう「物語」も引きはがす。小池に日本からの仕送りがまったくなかったこと、泥臭くエジプトの要人とのパイプを作ろうとする父親から、通訳代わりに使われていて、他の日本人留学生から「ゲイシャガール」と揶揄されていたこと。商談の場だったヒルトンホテルの食器類を盗んできてしまう小池の貧乏くささも語られる。

こうしたエピソードを並べながら、石井は小池がまとう嘘のベールを一枚ずつ引きはがし、彼女の「素顔」を明らかにしていく。では、小池は本当はどんな顔をしているのか。

それは、やはり早川の証言をもとに語られる。石井はこの章の最後で「早川さんには忘れ難い思い出がある」と、3つのエピソードを提示する。

1つ目は、育ちに関するものだ。アパートに来た男性客たちは小池を「芦屋のお嬢様だと思って扱い、小池もまた、そのように振る舞っていた」。ある時、客が帰った後に小池が「芦屋といってもいろいろなのにね」とこぼしたことがあったという。早川は振り返る。「その時の寂しげな横顔――」

2つ目は、文字通り、素顔のことだ。小池には生まれつき顔にアザがある。ある日、小池は化粧を落としていることを忘れて、訪問客を招き入れた。客の男性は「どうしたの!」と大声をあげ、小池は「さっきね、ぶつけちゃったの」と嘘をつく。早川は「この場面を何度となく思い返す」ことになったという。

自分の育ちを恥じる小池と、自分の見た目に悩む小池。これが嘘のベールをめくって描かれる小池の「素顔」である。これらのコンプレックスが、彼女が自分を他者に対して偽り続ける理由のように置かれる。

『女帝』は、リベラルな読書人を中心に好意的なレビューに恵まれてきたが、2つ目の「見た目」問題について、最近、文芸評論家の斎藤美奈子が苦言を呈して話題になった。

斎藤は『女帝』が「ルッキズムにそって作られたストーリー」だと指摘している。石井が小池の顔のアザを重視することを挙げ、「(それを)本人の性格と結びつけたり、人生の起点と決めつけるのは(…)きわめて筋が悪い」と批判する。(※文末にリンクあり)

この指摘は頷けるものだが、ここでは紹介するにとどめ、石井が第二章の一番最後に示す、もう1つのエピソードに触れたい。以下、引用する。

小池がいなくなったカイロで、どれだけ経ってからだろう。早川さんは小池が毎晩、家を留守にしていた理由を初めて知った。日本大使館に勤める男性書記官の夕飯を作るアルバイトをしていたのだ、と。/どうして何も言わなかったのだろう。一緒に暮らしていたのに。(p.117~118)

これは不思議な文章である。石井は、このエピソードをもって何を言わんとしているのか。なぜ、これを、小池の「素顔」を示す決定的な話のように、最後の最後に持ってきたのか。「どうして何も言わなかったのだろう」と言う早川にはこのエピソードの意味がわからないようだし、石井も何も語らない。

小池は「嘘つき」で、そして・・・

もともと「皆まで言わない」スタイルの書き手なのだろう。石井は小池が本当はどんな人物なのかを、自分の言葉で明示的に語ろうとしない。

改めて読み通してみると、面白い構成になっていることに気づいた。石井は序章で「いったい、彼女(小池)は何者か」と問いかけている。そして、終章でも「彼女(小池)に会う機会があったなら、私は何を聞くだろう」と自問し、「あなたは何者になったのか」という問いを挙げる。このノンフィクションは、対象の「正体」を質す問いを、その始点と終点に置いているのだ。

もちろん、取材が足りず、小池のことがよくわからなかった、という敗北宣言のつもりはないだろう。石井は、彼女なりに、小池の「正体」を見破っている。だからこそ、政治家としての活動を描いた後半で「彼女(小池)には別に都政でやりたいことなど、ひとつもなかったのだ」といきなり断言したり、「それが彼女の本質だからである」と強い言葉を放ったりできるのだ。

たったいま引用した部分は数少ない例外で、石井は地の文で小池を論評するのに抑制的だ。野暮なことはせず、「エピソードに語らせよう」というスタンスなのだろう。現在、ネット上にはチューブからそのまま垂らした絵の具のような、ドロリとした当事者の文章が溢れている。書かかれた内容と書いた動機が完全に一致しているような、濃い文章。自分の声を抑え、その姿をエピソードの後ろに隠すかのような石井の文章は、昨今のトレンドとは対照的で、これを「清廉だ」と読む人もいるだろう。

では、なにを「エピソードは語っている」か。

ひとまず言えるのは、小池は「嘘つきだ」ということだ。少し展開するならば、「自分の嘘にまわりを巻き込み、弱者を蹂躙する人」であり、「自分を飾り立てることだけを考えており、社会に対する関心がない人」とも言える。あまり明示的に語らない石井が、小池を空疎な人物として見てることは、彼女が提示するエピソードから伺える。

 しかし、どうやらそれだけではないのだ。

『グレート・ギャツビー』——うさんくさい者の背中を叩く

さて、わたしは、これは嫌だなと思った。なにか、毒気にあてられたような気分になったのだ。そして『女帝』読みながら、これってアレだな~と思っていた小説を手にとった。スコット・フィッツジェラルドが書いたアメリカ文学の古典『グレート・ギャツビー』である。村上春樹の愛読書として知る人も多いかもしれない。

ミネソタ州の貧農の息子であるジェイ・ギャツビーを巡るお話だ。ギャツビーは違法ビジネスで成り上がり、豪邸で盛大なパーティーを頻繁に開いている。物語の語り手で、証券会社で働き始めたばかりの青年、ニック・キャラウェイはそのパーティに招かれ、ギャツビーと知り合う。そして、次第に、ギャツビーの派手な行いは全て、5年前に恋に落ちたある女性を引き寄せるためだったことを知るようになる。

ギャツビーは筋金入りの嘘つきである。ニックや他の登場人物に対して、ばんばん嘘をつく。「オックスフォード大」出身であることもそのひとつ。同大で学ぶことが「一家の伝統」などと、尾ひれまでつける。しかし、物語の後半で、ベールがはがれる。ギャツビーが恋慕する女性の夫が、素性を調査し、ギャツビーの学歴詐称を暴露する。ギャツビーはこれを受け、「行くことは行きました」と言う。さらに説明を求められた彼は、以下のように語るのだ。

「(第一次世界大戦の)休戦協定のあと、一部の将校にそういう機会が与えられました」とギャツビーは続けた。「イギリスかフランスにある大学なら、どこでも好きなところで学んでいいと言われたのです」/僕は立ち上がって、この男の背中をぱんと叩いてやりたいと思った。以前に感じたの同じ、彼に対する全幅の信頼みたいなものが僕の中に戻ってきた。(中央公論新社の翻訳ライブラリーp.235、村上春樹訳)

虚飾をはがされ、等身大のギャツビーが出てくる。オックスフォード大に行くには行ったのだ。卒業したわけではない。「一家の伝統」というのも嘘だ。でも、語り手であるニックは「立ち上がって(…)背中をぱんと叩いてやりたい」と思う。

わたしがこの場面を引用したのは、ギャツビーと小池は学歴詐称(疑惑)が同じだね、という類似を指摘するためというよりも、むしろ、この古典的フィクションと今をときめくノンフィクションの大事な違いを示すためである。注目しているのは、ニックという語り手のあり方だ。

ニックは、ギャツビーに嘘をつかれながらも、その隠された意図を見出す。そして「誰も彼も、かすみたいなやつらだ(…)みんな合わせても、君一人の値打ちもないね」とギャツビーに賛辞を送る。

対象に対する最終的な評価は重要ではない。膨大な虚飾の中から、その嘘つきにとっての真実を選り分けようとすること。そして、その真実が垣間見えたときに「背中をぱんと叩いてやる」構えがあること。わたしは、それが、『女帝』にはないな、と思ったのだった。

『女帝』の「動機」を読む

石井は、「小池百合子物語」のどんな語り手だろうか。ニックと石井を横に並べてみたいわたしは、『女帝』を再び開いて、彼女の痕跡を探してみた。

まず、石井はなぜ小池について書こうと思ったのだろうか。ノンフィクションでは、著者が対象の人物や事柄に注目した(関わった)経緯の説明がよく出てくるが、わたしは普段からそうした記述に注意して読むようにしている。2つ理由がある。1つは、どんな人がどんな立場から書いているのか把握した方が、情報を摂取する上で効率が良いということ。

もう1つの理由は、その方がおもしろいからだ。ノンフィクションの書き手は、対象を知る上でも、対象を評価する上でも、必ず何らかの「限定」を帯びている。神の視点を持たない、生身の人間として、その「限定」を引き受けたうえで、いかに対象について書いているか。その格闘を読むことに、「情報摂取」を超えたおもしろさがある。

そんな読み方をするとき、『女帝』はどうか。序章で石井はこんなことを言っている。

「平成という時代が終わり、眼の前から過ぎ去りつつある。ひとつの時代は社会を代表するものが記述された時、はじめて歴史になるという。私たちは誰を語り、誰を描けば、平成を歴史とすることができるのだろうか(・・・)平成を代表する女性は、誰か。そう考えてみた時、初めて彼女の名が思い浮かんだ」(p.10)

小池について書くのは、「平成を歴史とする」ためだという。そして「平成を代表する女性は、誰か」と考えて初めて小池の名が浮かんだのだと。ぼんやりしている。あたかも、個人的には小池に関心はないのだが、社会にとって必要だから調べてみた、とでも言うような説明。人はこんな一般論みたいな動機で――雑誌の一つの記事ならともかく――一冊の本を書けるだろうか。

『女帝』の文章に、石井はあまり姿を見せない。その代わりに――と言ってはなんだが――証言者の早川の姿が幾度も描かれる。早川という「キャラクター」が頻繁に顔を出すことが、この本に物語としての読みやすさを与えている。

その早川は、恐怖に怯えている。大臣に就任した小池の姿をテレビで見てこう思う。

彼女は過去を消し、新しい物語を上書きしている。では、過去を知っている人間もまた、消されてしまうのか。(p.288)

エジプトは軍事国家であり、日本の経済援助を受けている。小池はそのエジプトの高官や軍部とつながっており、「家の外に出るのが怖くなった」という。それでも、彼女は証言することを決意する。

自分の死とともに真実は、この世から消えてしまう。(…)これは罪ではないのかと自分に問うた。歴史に対する責任はないのか、このまま神の御許に召されていいのか、と。(p.400)

著者の石井は、早川から情報を得た後、すぐに『文藝春秋』で「小池百合子『虚飾の履歴書』」と題した記事を発表している。それは「権力者の秘密を知っていることにより、恐怖の中にある早川さんが安心を得るには、情報を公にする必要がある」と考えたためだという。

「あとがき」に飛ぼう。石井は、文章をこう始める。

ノンフィクション作家は、常に二つの罪を背負うという。/ひとつは書くことの罪である。もうひとつは書かぬことの罪である。後者の罪をより重く考え、私は本書を執筆した。(p.429)

さて、ここに語り手(著者)と、最も重要な証言者がいる。彼らは小池に対する「恐怖」と「歴史に対する責任」と「書かぬことの罪」を感じており、それが小池百合子という人物について書いた(証言した)理由だと言うのだ。

恐怖であれ罪であれ、石井も、石井が描く早川も、自分の外側からやってくるなにかに対するリアクションとして行動している。彼女たちはたまたま「小池」や「歴史」に巻き込まれたのであって、そうでなければ書くのも証言するのも彼女たちでなくてよかった。彼女たちには書く・証言する内発的な理由がないのである。

わたしの「石井はなぜ小池について書こうと思ったか」という問いは、石井はどんな語り手なのか、という興味をもとに発されたものだが、これでは肩すかしである。

しかし、わたしは、どこかのタイミングで『女帝』のこれらの言葉を額面通り読むのをやめている。

この本には「本当の動機」が書かれていないのではないか。それが書かれていないから、このようなキレイゴトが必要とされているのではないか。そう、読んでしまっているのだ。

『女帝』の毒——3つ目のエピソード

本のレビューにおいて、その本に書かれていないことに焦点をあてるのは難しい。そこで1つの「書かれたこと」をヒントに、わたしが『女帝』の背後に幻視した語り手像を再構成してみたい。改めて問うてみるのだ、エピソードが何を語っているのか。

注目しているのは「第2章」の最後に表れる「素顔」に関する記述である。小池の育ちの話と、顔のアザの話の後に、なにかの決め手のように投げ出される「男性書記官の夕飯を作るアルバイト」の話。

先に述べたように、石井はこのアルバイトのエピソードを紹介するだけして、論評せず、放置する。あたかも嘘つきで秘密主義の小池が抱える秘密の1つでしかないとでも言うように扱う。しかし、これが学歴詐称や、顔のアザとは別種の秘密であることは明白である。男性との交遊が盛んだったことを示すエピソードもこれ以前に出てくるが、それともレベルが一段違う。だからこそ、3つの「素顔」のうち、これだけはルームメイトの早川にも見せなかった。このエピソードを最後にもってきた石井が、それを意識していないはずはない。

言葉を選ばずに言えば、これは<いかがわしい>アルバイトとして文中に置かれている。書かれた内容だけでも十分明らかだが、このエピソードの置かれ方から、それを読み取らないことは難しい。そして、このアルバイトの<いかがわしさ>を石井が一切語らないことに、わたしは石井が抱いているであろう、強烈にネガティブな反応を想像する――「口にするのも汚らわしい」とでも言うような。

わたしが思い描く語り手像(石井像)はこうだ。彼女は小池の中に<おぞましい>ものを見る。そして、その<おぞましさ>に触れることを拒絶し、心理的に排除しようとする。その一方で、小池について語るとき、このアルバイトの話を第二章の最後の最後に持ってこずにはいられない。なぜなら、これは石井が見出した小池の本当の「素顔」だからである。「男性書記官の夕飯を作るアルバイト」のエピソードは、小池の哀しくも<いかがわしい>カイロ時代を語るが、同時に、語り手の小池に対する最深の思いである<嫌悪>を語ってしまっているように見える。

ノンフィクション作家の佐野眞一が「いかなる人物の評伝でも、取材の原動力となるのは、対象として取り組んだ人物への共感と反発という両輪のキャタピラである」と言っていたことを思い出す。うさんくさい人物を描こうとするとき、最終的にどう評価するかは別として、少なくとも「背中を叩く」構えが必要なのではないか。

その構えを欠くならば、うさんくさい者の評伝は、それが読者の支持を得て売れれば売れるほどに、見えにくい<毒>を世の中に流通させることにならないか。

この本で言えば「自分を他者に対して偽らなくては生きていけないと感じる者」を追いつめるような毒。この本について特筆すべきことは、小池を嘘つきと糾弾する石井に、嘘のベールの向こう側にある小池の素顔を「そのままで美しい」と肯定する気配が皆無であることだ。小池の顔のアザにしても、憐れみの対象でしかない。そんな顔で、おかわいそうに。「あばたもえくぼ」に見えてしまうような、対象に対する正の関心は見あたらない。

『女帝』は、小池が幼い頃から晒されてきた視線がどのようなものであったか、どのような視線のもとに小池のような人物が形成されるかをグロテスクなまでに教えてくれる。皮肉にも、その語り全体によって。

わたしは『女帝』の後に、解毒剤でも求めるように、虚飾にまみれた人物の背中を叩くような『グレート・ギャツビー』を手に取ったのだった。

許さないのは

石井は抑えの効いたレトリックの使い手である。上手い。それが故に、<毒>は覆い隠されている。そのベールを一枚はいでみようか――

石井は「太陽」の比喩が好きだ。先に、『女帝』の終章の最後に「あなたは何者になったのか」という問いが置かれていると書いたが、実はこの問いには次のような続きがある。

そして、太陽はあなたに眩しすぎなかったか、と聞くだろう。(p.427)

そんな生き方でお天道様に顔向けできますか、という問いである。もちろん修辞的な問いであり、石井は「あなたような生き方を、お天道様はゆるしませんよ」と宣言しているのである。わたしはつぶやいてしまう。太陽じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?

(参考)
斎藤美奈子の『女帝』評
みのわの初読時の連ツイ(←褒めたり、疑ったりしてる)

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