オンライン読書会の課題本「楢山節考」の感想文
昨日は、オンライン読書会の日だったので参加してきました。今回の課題図書は、深沢七郎 著 「楢山節考」
ずいぶん前に一度読んだのですが、姥捨伝説の話であること以外は、ほとんど忘れていました。
今回、再読してみて、まず、「楢山節考」というタイトルがけっこう不思議だなぁと思いました。姥捨伝説がテーマであり、村が舞台で方言が出てくる小説なのに、「考」がつくことによって、小説というよりは論文のようであり、インテリっぽい雰囲気も感じました。
次に、おりんと楢山の神はイコールの存在なのではないか、ということ。さらに印象に残ったのが、あらゆる対比がちりばめられているのではないか、ということでした。
この小説が何人称で書かれているのか、よくわからないのですが、(三人称と一人称が混じっている?)わたしは基本的には三人称小説ではないかと思います。おりん視点の一人称小説であれば、もしかしたら「楢山節」というタイトルだったのではないか、なんて空想しました。三人称であれば一般的には「神の視点」ともいわれているように、冷徹であったり、突き放した感じを与えるものですが、この小説においては三人称であるからこそ、著者が昔話をしてくれているようでもあり、生々しさをうすめてくれる効果や、小説全体を包むあたたかさも感じました。
そして、深沢七郎という著者についても、文庫本に載っている顔写真を見ると、いかにも自然というか天然の人なのかなという感じがしますが、小説を読んでみると、どうもそれだけではない、構成力であるとか創作においての緻密な計算力のようなものも垣間見える気がします。
と書いてみたものの、では、天然であることと構成力や計算力は、まったく対極のものなのかというと、そうでもないような気もしてきて、天然性の中にそれらも含有されているのではないか、と考えました。ここでいう天然性とは、無意識に置き換えても良いかもしれず、「楢山節考」は、そのような創作の秘密が、一見無いようにみえて、作品によくあらわれている小説という側面もあるのではないかと思います。
印象に残る場面は多々あるのですが、わたしは「からす」の描写(表現力)にとても感動しました。
「からす」→「人間」→「とり」→「黒猫」というように比喩表現が移り変わっているのです。わたしは正直、この部分を読んで、「からす」とはいったい何なのか、もしかしたら人間のことなのかもしれない、と思うとこわくなりました。というより、人間のダークな部分をあらわしているのかもしれません。
p53
「(略)辰平のうしろから追いかぶせるように言った」
このセリフを読んで、辰平がおりんを背負う、というのが実際の行動としても、そして精神的にもそうであることの象徴だと思いました。ある意味、即身成仏にかなり近いことを描いているとも思うのですが、結局、辰平にとってのおりんの存在というのは、いつまでも大きいまま、あるいは、生死にかかわらずその存在感は消えず、いつまでも一緒にいるのではないか、とも思ったのです。
先に、神とおりんはイコールではないか、と書いたのですが、背負われるということは、おりんは神でもあるが十字架でもあるような気もします。辰平はおりんをずっと背負い続ける、というか、むしろ背負い続けたい、というようにも、読めなくはないのかなぁ、と思います。
考えすぎていたり、深読みしすぎているところもあったり、うまく言葉にならず書き足りないこともありますが、「楢山節考」を読んで、以上のような感想を持ちました。
読書会では、さまざまな感想を語り合うことができ、自分では気がつかなかった解釈や、映画についても聞くことができました。昔の話ではあるけれど、現代的な部分もある、という意見や人間の自我についての話が面白くて、かなり考えさせられています。
会終了後に、オフ会のような雑談の時間もあったのですが、その時には前回の課題本「夏子の冒険」の著者三島由紀夫や、川端康成の話にもなり、大変興味深かったです。
このあとも、文庫本のまだ読んでいない部分や、昨日送られてきたレジュメをじっくり読んでみる予定です。深沢七郎のほかの作品も読みたくなりました。
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