見出し画像

患者さんが息を引き取る瞬間に「最期の心の声」を聴く

はじめに言わせて下さい。私には、霊感と言われるような特殊能力は全くありませんし、幽霊などの非科学的な存在を必要以上に信じてはいません。

しかし、ナースとして病棟で働いていたころ、おそらく現代科学では説明することが難しい事象に、たびたび遭遇することがありました。

その一つを紹介します。それは、患者さんが亡くなる瞬間に立ち会ったときに感じる、言葉では言い表すことが難しい、不思議な感覚です。

医師・看護師は、人が産声を上げた瞬間から息を引き取る瞬間まで、人生のすべてに関わる特別な職業

人は、この世に生を受けた限り、遅かれ、早かれ、必ず最期の時を迎えます。

医師や看護師は、家族や親族以外に、最期を迎える人の「その時」に立ち会うことを認められた、特別な職業です。

私も病院ナース、施設ナース、病棟ヘッドナースの時代を含め、いままでのナース人生のなかで、数えきれない患者さんの最期に立ち会いました。

人の最期は「息を引き取る」、つまり息を吸って最期を迎える

人の死亡判定は、「呼吸の停止」、「脈拍の停止」、「瞳孔の散大」を医師が判断します。


上記とは別に「脳死」という基準もありますが、私の経験の中で、脳死判定の場に立ち会ったことはありませんので、これから述べることは、すべて「脳死」以外の死の場面の話です。


人の呼吸とは、「呼気」と「吸気」を指します。簡単に言えば、呼気とは息をはくことで、吸気とは息を吸うことです。

呼吸は、血液の循環と同じく、生命を維持してゆくために、必要不可欠な機能です。

人は産まれた時に、産声を発しますが、それは息を吐きだす呼気です。それでは、人が最期を迎えるときは、呼吸はどうなるでしょうか?

すでに想像がついていると思いますが、私の経験からも、息を大きく吸って、呼吸が止まり、最期を迎える患者さんが多かったように思います。

つまり、人の最期はやはり「息を引き取る」。この言葉の「引き取る」は、まさにその通りの現象を表したものだと思いました。

「呼吸の停止」「脈拍の停止」「瞳孔の散大」した瞬間が人間の最期なのでしょうか?

今までの話の流れから、人が亡くなったことが証明される時間(=死亡時間)は、上記の3つを医師が判定した時間、ということが言えます。

おそらく、身近な人の最期に立ち会った経験がある方は、なんとなくわかるかもしれませんが、あえて、死亡時間を上記3つに至った時間と言わずに、「亡くなったことを証明される時間」と書いた意図は、「呼吸の停止」「脈拍の停止」「瞳孔の散大」した瞬間が、「死亡した時間」とは限らないからです。

看護師は人の最期の見届け人


実際、病院で患者さんが最期を迎える瞬間、一番近くにいるのは、付き添いをしている家族と担当の看護師であることが多いです。

患者さんの家族や親族が、病院から遠いところに住んでいるときは、場合によって、最期の瞬間に立ち会えないときもあります。いわゆる「死に目に会えない」状況です。

近年は、核家族化が進んでいて、その傾向も多くなっている印象です。

急変により死に至った患者さんの場合は、医師もその場にいますが、そうではなく、癌の末期や重篤な状態で入院し、そのまま病院で看取りとなる場合は、医師は、他の患者さんの診療や検査等で手を離せない状況も多々あり、心電図モニターの波形が0になった後(最期の瞬間の後)に呼ばれることも少なくありません。

ということは、患者さんの最期に確実に立ち会う人間は、「看護師」だけなのです。

つまり、看護師は患者さんの最期の見届け人なのです。

看取りを通して、人の命の尊さを知る


患者さんが10人いれば、10通りの人生があり、一つとして同じ人生はありません。その人生に終止符をうつのは、まぎれもなく一瞬です。

ある人からみれば、不謹慎なことを言っているかもしいれませんが、私は、そのような、かけがえのない尊い時間に立ち会える役割を与えられた看護師という職業の素晴らしさを実感せずにはいられませんでした。

まさしく「この仕事を天職と思った瞬間」です。

しかし、私は看護師になってから、ずっとその思いを抱いていたわけではありません。

看護師駆け出しのころは、そんな思いには全然なれませんでした。むしろ、新人の頃の私は、人の死に触れるということは、本当に怖くて、できれば避けたいと思って、「わたしの勤務時間で、亡くならないでほしい」と、命の尊さからの思いではなく、死後対応が自分の仕事にならないように、という本当に今思えば、幼稚で恥ずかしい考えを持っていたのが事実です。

その考えが変わり始めたのは、看護師になって、5年目くらいの時でした。

患者さんの息を引き取る時に「最期の心の声」を聴く瞬間がある

ある受け持ち患者さんの看取りの際に、最期の瞬間に家族の到着が間に合わず、私が立ち会うことになりました。深夜の3時頃だったと思います。

呼吸の回数、脈拍も徐々に少なくなり、確実に最期が近づいていました。

深夜の時間だったため、主治医もすぐには来れない状況でした。

そして数分後、呼吸が止まり、脈拍も触知できなくなり、心電図の波形は0を示していました。
ドラマでよくみる、心電図のモニターからアラーム音が鳴り響き、心電図の波形が一直線を示した状態です。

私は、その最期を迎える数分間、患者さんの手を握り、その場に立ち会えなかった家族に代わって、「長い人生、本当にお疲れ様でした。安らかにおやすみ下さい」と心のなかで唱えました。

すると、次の瞬間、握った手から「いままで、本当にありがとう!家族にもありがとうと、伝えてね」と患者さんの声が伝わってきたように感じました。
その感覚は、本当に不思議なものでした。

今思えば、思い過ごしだったのかもしれませんが、いまでも、その感覚は鮮明に覚えています。

そして、その感覚は、その患者さんの最期だけではなく、その後も同じような事象をいくつも経験しました。

しかし、その事象を感じるのは本当に一瞬です。人が生命の機能を失い、「呼吸の停止」「脈拍の停止」「瞳孔の散大」した後の数分間のみです。

その声が聞こえるその時間は、命ある人間からご遺体へ変わる間の時間ともいえるかもしれません。

これもまた、不思議なことで、最期の時から時間が経過し、ご遺体となった体からは、その「声」は聞こえてきません。

尊い人の最期に立ち会いたいと思うのは、たとえ意識が無くても、その人の最期の声(心の声)を聞きたいから

先日、安倍晋三元首相の国葬の弔辞の中で、菅義偉元首相はこのように話されていました。


信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。
あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。
その一心で、現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました。


菅義偉元首相は、安部元首相の最期の声を聞けたのではないでしょうか。

人の死とは、本当に悲しいことです。しかし、それを避けて通ることは、絶対にできません。

最後にもう一度、言わせていただきますが、私には、霊感と言われるような特殊能力は全くありませんし、幽霊などの非科学的な存在を必要以上に信じてはいません。

それでも、確実に感じる、不思議な感覚があります。

この感覚は、科学技術が発達したこの現代において、AIをいくら駆使しても決して解明できない、人と人の間にしか存在しない尊いものだと私は思います。

最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?