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映画『グレート・インディアン・キッチン』の感想と考察/ネタバレあり

随分前に、鑑賞した映画『グレート・インディアン・キッチン』のネタバレ含めた感想と考察をしていきます。まだ観ていない方は要注意。


あらすじ

主人公に名前はなく「夫」と「妻」。

お見合い結婚でお互いのことをほとんど何も知らないまま結婚し、生活が始まっていく。

しかし朝から晩まで台所で食事の支度や掃除をし、「妻」の一日は過ぎていく。そして夜は夫との気持ちのよくない性行為の相手。就職をも拒まれ、生理になると隔離される。そんな生活が続いていくが……

予告編

注意!ここからネタバレあり!


何もしない男と馴染もうとする「妻」

「妻」は父親が中東に赴任していたためインドの伝統をあまり知らない。

一方、夫は格式の高い家で生まれ、結婚式も伝統的に挙げられる。そうして義父母と夫と4人暮らしが始まった。

義母は朝から晩まで台所でご飯を作り、片付けをする。

ここでの料理をする様子は小気味よい音楽とともに描写され、リズミカルに進んでいく。

(ケララ州の料理など日本人にとってあまり馴染みのない料理も出てきて面白いです。)

男たちが食事をし終えた後は、食べかすなどテーブルの上は散らかり放題。ようやく家事を終えると夜は決して気持ちの良くない「夫」の相手をし、一日は終わっていく。

とにかく男たちは何もしないという印象 。

「夫」は「妻」が食事の準備をしている一方で優雅にヨガをし、仕事にでかける。

こういった対比が目立つ。義父にいたっては、歯ブラシや靴まで義母に用意してもらう始末。

白米を炊くと窯で炊くように言われたり、昼はチャパティのほうが身体にいいと言われたりする。

ちなみに「夫」の職業は教師。

女学生に「家族とは夫婦を土台とする集合体である」と教えているにも関わらず、肝心の「妻」の気持ちはわかっていないと皮肉的な描写である。

義母が長期間留守に。家事は「妻」一人で行うことに・・・

義母は嫁いだ娘が妊娠したため長期間、家を留守にすることになった。家事はより一層大変に。

「妻」は、朝から晩まで台所にいる生活にうんざり。ダンスの講師として就職活動をしていいかと義父と「夫」に聞くが、義父は「我が家にそぐわない。」「母さんも大卒だが、家にいるのが一番いい仕事だ、官僚より格式の高いことだ。」と反対する。

「夫」は取り計らうというが何もしてくれない。

台所の排水溝のパイプには穴が空き、排水が漏れている。

「夫」に何度も配管工を呼んでくれと頼むが、口先ばかり。排水は取り急ぎ置いたバケツのなかにどんどん溜まっていく。

「妻」のこの家に対するストレスがどんどん溜まっていくよう。(最終的にそれを男たちにぶっかけて出ていくところが痛快で気持ちがいい。)

そして生理に……

生理になったと夫に伝えると、第一声は「お茶は作ってないだろうな?」だった。

生理になるとお茶も作ることができず、何にも触れることができない。

そのため違う部屋へ隔離される。その間、最初は夫の妹(?)が家事をしに来るが「生理でも食事を作ることもあるの、月に4日も仕事を休めないわよ」と言う。

その頃、政治的に生理は穢れではない、という法案が可決されようとしていた。フェイスブックで、とある女性が「この国での生理の扱いはおかしい」と声をあげ、「妻」はそれをシェアするが、それすら消すように親族の男たちに言われる。

フェイスブックに意見を投稿した女性の自宅には男たちが文句を言いに来て、バイクに火をつけて帰っていく場面が描写された。


次の生理のときは、叔母さんが家事をしに来るが、生理期間中は洗えるものしか使ってはだめ、といわれベッドではなくゴザを使うように言われる。下着も影に干すようにと保守的な言動。

そこで「妻」は毎日牛乳売りに来るの少女と仲良くなっていくが隔離中、妻が少女に「来てはだめよ」と言っても「なんでなの?」と隔離部屋に行き、フルーツを渡す。

私にはこの少女が希望のように映った。

もちろん少女は生理だから隔離されていると理解していないのだが、そもそも隔離されるべき理由などない。それを象徴している気がした。

あるシーンでは生理中に「夫」が庭先でバイクで転び、「妻」が駆け寄り身体に触れると「触れるな」と言い放つ。「神よ、許したまえ」と唱え、巡礼先へ。

生理中の女性に触れられた場合、牛糞を食べるといいとされているが、今は沐浴で清めるだけでいいと言われ、沐浴をする姿が映る。

絶賛生理3日目だった私は、男たちへのムカつきが倍増してきた。

「妻」は家出を決意

そんな家と「夫」に堪忍袋の緒が切れた「妻」は家出を決意。ミルク売りの少女の協力を得て、排水溝の水をお茶として出す。

そして激高した夫と義父が台所にくると、バケツに溜まった汚水を顔にかけて、家を出る。

海辺を歩く「妻」は「私たちは閉経まで我慢できる」というプラカードを掲げた年配の女性たちの前を見向きもせずまっすぐ通りすぎる。

前だけを見てまっすぐ進んでいく様子は「妻」の決意の現れを表現しているようだった。

実家に帰ると「そんなことで家出か」と言われる。ちょうどそこに弟が帰ってきて「水をくれ」というが「そんなことも自分でできないのか」と強く言い放つ。

それぞれのその後の人生

夫は新しい「妻」を受け入れる。そして、「今までの人生はリハーサルだった」と新しい「妻」に言う。

元「妻」はダンス講師として働く。あるダンス公演のリハーサルの場面へ転換すると、鎖に繋がれた女性激しく躍動的に踊る女性が映る。激しいリズムをうつような音楽が流れていく。

映画の序盤ではゆっくりとした恋愛の歌が流れたのに対して、激しい音楽で力強い火を例えるような歌だった。

元「妻」はダンス講師という夢を叶え、いきいきとした表情をしている。それに対し、「夫」は何も変わらず、新しい「妻」を台所という鎖で結びつけるのだ。

妻と夫には名前がない

主人公の「妻」と「夫」の名前が出てこないのも、ある特定の人を描いたものではなく、世界のどこかの大勢の人の物語だということを象徴しているよう。

インドに根深く残るのはカースト制度だけでなく、女性に対する差別もだ。

途中「妻」のダンス仲間から電話があるが、その家では夫が料理を作ったり、お茶を入れたりしている場面もあったので、変わりつつある家もあるのかもしれないが。

物語の最初に「科学に感謝」というテロップが流れるが、科学がなければ、生理も穢れとして扱われたまま主人公の「妻」は何もできなかったであろう。

かつての日本もそうだったのかもしれないが、インドの女性、否、世界中の女性は不自由を強いられたかもしれない。

とにかく台所に縛り付けられた女性と何もしない男性という構図で進んでいく映画だが、フェミニズムという言葉で括ってほしくはない。

厳しい環境で自分の力で自分の人生を、切り開いていく女性の映画なのだ。

余談だが、ケララ州の料理も食べたくなる映画であった。

配信

残念ながら現時点で配信では鑑賞できないよう。
中古では安く手に入るので、気になる方は観てほしい。


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