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食について考えると、資本主義の矛盾が見えてくる
国連は、持続可能な開発目標(SDGs)の2番目に「飢餓をゼロに」という目標を掲げている。「飢餓を終わらせ、食料安全保障と栄養改善を達成し、持続可能な農業を促進する」のだという。
『持続可能な開発目標(SDGs)報告2021』は、コロナ禍以前には、6億5,000万人が空腹になり、約20億人が食糧不安に苦しんでいたこと、さらにはこの数字が2014年以降増加していることを明らかにしている。
さらに、コロナの影響を無視しても、約2億3,000万人の子供たちが栄養失調に苦しんでいることも指摘している。
ハンス・ロスリングが『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 』で明らかにしているように、長い目で見れば、世界的な飢餓は減少している。
ただし、ロスリング自身が述べているように、減少傾向にあるという事実と、問題がないということはイコールではない。
問題はあるのだ。
引き続き報告内容をご紹介しよう。
コロナ禍で飢餓と食糧不安は高まっている
COVID-19は、世界的に拡大している食料サプライチェーンに混乱をもたらしただけではなく、雇用の喪失等により社会的不平等を拡大し、飢餓と食料安全保障にさらに深刻な影響を及ぼした。
2020年には世界で7億2,000万人から8億1,100万人が飢餓に直面している。この数字は、2019年から1億6,100万人も増加したという。
低栄養率は、2019年の8.4%から2020年には9.9%に増加。
子どもの肥満への影響
飢餓問題が深刻化する一方で、肥満の問題も深刻だ。
コロナ禍において、肥満はは5歳未満の3,890万人の子どもに影響を及ぼしたと指摘されている(5.7%)。
2020年には、家計が悪化し、栄養価の高い食品が買えなくなり、手頃な価格の食品を食べざるを得なくなった結果、多くの子どもたちが消耗症という栄養不良に苦しんでいたおそれがある。
子どもの肥満と消耗症は、驚くほど高いレベルで多くの発展途上地域で発生している。
ハンガーマップ2020
地域別に飢餓の割合を見ると、アフリカ21.0%、アジア9.0%、ラテンアメリカとカリブ海9.1%もの人々が飢餓に見舞われている。
数で見れば、世界の栄養不足の半分以上がアジア(4億1,800万人)にあり、3分の1以上がアフリカ(2億8,200万人)にある。
国連WFPが毎年公表している、世界の飢餓状況を表した世界地図「ハンガーマップ」を見れば、地域的な傾向は一目瞭然だ。
ハンガーマップ2020は、現在の傾向が続けば2030年までに飢餓人口は8億4,000万人に達してしまうと警鐘を鳴らしている。
少しずつ改善しているとはいえ、世界的にこれだけ資本主義が発展した21世紀にあってなお、世界の10人に1人は飢餓状態にあるのだ。その一方で、飽食・過食による肥満という矛盾したような問題が発生しているのである。
というと、問題の本質を見失うことになる。
問題の核心は、資本主義が発展すればするほど、食糧問題は解決しないということなのだ。
長期的にみれば、引き続き少しずつ改善することは予想されるだろう。
しかしながら、経済成長を追求する限り、食糧問題は根本的には解決し得ないのである。
『食べものから学ぶ世界史-人も自然も壊さない経済とは?』の著者である平賀緑は、資本主義経済のカラクリを次のように説明している。
少し長くなるが、わかりやすいのでそのまま引用する。
この経済のカラクリの中では、人などの幸せや自然環境は、お金で計る企業の損得勘定には含まれず、むしろ何かの対策をとるために費用(コスト)になる、マイナス要素になってしまいました。国のGDPには、人と自然を破壊することでもお金が動けば経済成長としてプラスに計上されるほどです。『肥満の惑星(Panet Obesity)』という本は、経済成長をGDPで計っていると、人や地球が不健康になればなるほど「経済成長」することになると指摘しています。食品を過剰に生産して必要以上に消費(食べ過ぎ)すれば経済成長、メタボになってジムや医者に行けば経済成長、トクホやダイエット食品を買い食いすれば経済成長、食品ロスを増やせばその処理事業でも経済成長というぐあいに。
(強調は引用者)
一方で飢餓になるくらい食べものが足りなくて、一方で廃棄せざるを得ないほど食べものが溢れている。
ここに食べものの偏在が確認できる。
食べものの偏在は富の偏在であり、それは世界的な格差社会の象徴だ。
というのは、食べものが「商品」として扱われており、商品はお金のあるところに集中するのである。
したがって、問わなければならないのは、食べものを「商品」としている資本主義経済のシステムそのものなのである。
食べものの歴史
資本主義以前は、人びとは農村で自給自足的な食生活を送っていた。
しかし、機械制大工業によって資本主義が始まると、工場に大量の労働者が必要となった。
新たな労働の担い手として注目されたのが、農村で働いていた人びとだ。
囲い込みによって都市部の工場で働かざるを得なくさせられた賃労働者の食が「商品」となったのである。
その後、資本主義の発展、経済成長の発展に伴い、大量生産・大量消費の時代に突入する。農業も大量生産を行い、国内だけに留まらず、途上国にも市場を開拓して行くことになる。
新自由主義社会とグローバリゼーションが台頭するようになると、サプライチェーンはグローバル化し、多国籍企業による寡占が進むことになった。
食料品や農地は、いまや金融商品としてマネーゲームに組み込まれてさえいる。
どこの誰が生産し、運送し、調理したかわからない食品を「当たり前」のように食べている。
残念ながら、これがぼくたちの毎日の食事の姿だ。
「使用価値」を重視する
いますぐに食べものが持つ商品性をすべて剥ぎ取ることは難しい。
しかし、商品性を少しずつ剥ぎ取ることは可能だ。
経済思想家の斎藤幸平は、著書『人新世の「資本論」』の中で、商品の「交換価値」を重視する社会(資本主義社会)から「使用価値」を重視する社会(脱成長コミュニズム)への転換を提案している。
交換価値は、お金と交換できる価値である。
それに対して使用価値とは、自分と人の役に立つこと、地球や環境にも貢献する有用性である。
すると、こう思うかもしれない。
他者にとっての欲求・欲望を満たすから、お金と交換できるのでしょう?
現象的には物々交換の延長として交換価値は使用価値に基づいて生じているように見える。そうした側面があることも事実だ。
しかし、実際には、交換価値を生み出すために使用価値がつくられるのであり、それこそが資本主義の真髄なのだ。
交換価値を優先すると、まだ使えるのに最新の製品に買い替えるということが起こる。
まだ使えるものは、廃棄されたり、売られたり、リサイクルされたりする(本当にリサイクルされているかは怪しいものもある)。
ここに安さという価格要素が加わると、大量生産・大量消費の方が経済合理性があるとみなされ、大量廃棄まで含めた大量型の社会が完成する。自然や環境への負荷はハンパない。
だから、交換価値ではなく、使用価値を重視しましょうということが提案されているのである。
たとえばぼくは、車は中古車を購入し、可能な限り乗り続けたり、ペットボトルの水を買わないようにしたりしている。最近ようやく子どもの頃水道水を飲んでいたことを思い出した。
とはいいつつも、いますぐ商品経済から完全に離脱することなど自分には無理だと思う。
けれども、商品を購入するとき、少しずつだが使用価値重視を心がけるようにもなっている。
ただし、実践面において注意すべき点もある。
「SGDsは大衆のアヘンである」。斎藤幸平が鳴らす警鐘だ。
自分のためにいいこと、他人のためにいいこと、自然や環境のためにいいことが資本主義に絡めとられ、そこから別の不要・過剰な購買欲求が惹起され、資本主義システムの問題点から目を背けることになるのであれば、それは本末転倒だという主張だ。
環境にいい電気自動車だから複数台所有しよう。発展途上国のために着なくなった服を寄付するついでに新しい服を買おう。
SDGsを免罪符にしつつ、経済成長の藁にしがみつく。
斎藤は、そんな生活を繰り返すのであれば、意味がないどころか、むしろ有害だという。
むろんSDGsの理念そのものが間違っているわけではない。
実践において間違いがあれば修正し、知識や経験不足があればそれを補い、試行錯誤して進むしかない。
「これが100%正しい」と主張する実践があれば、眉唾で聞き流しておいたほうがいい。
いつの時代も未来を切り拓くのは、日進月歩、一進一退の実践である。
将来予測については少し悲観的になり、実践においては楽観的でいくことが、いい塩梅ではないか。
梅干しが食べたくなった。ご飯を食べよう。
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