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社会的共通資本(コモンズ)は復権できるか?

「現代社会における格差社会の原因及びその解決策を述べよ。」

大学入試や大学院入試に出題されそうな問いを立ててみる。

ぼくの答えはこうだ。

「原因は、本来、社会的に共有されているはずの資本が私的に所有されているからであり、それを本来の形に直していくということが解決策である。」

しかし、この解決策に実現可能性はあるか?

これが今回のテーマだ。

社会的共通資本(コモンズ)とは?

社会的に共有されているはずの資本は、社会的共通資本と呼ばれたり、コモン(コモンズ)と呼ばれたりしている。

経済学者・宇沢弘文の著書『社会的共通資本』によれば、社会的共通資本の定義は次のとおりである。

社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。

宇沢の念頭にある「ゆたかな経済生活」「ゆたかな社会」とは何か?

各人が、その多様な夢とアスピレーションに相応しい職業につき、それぞれの私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で安定的な家庭を営み、安らかで、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会を意味する。それはまた、すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保できるという、本来的な意味でのリベラリズムの理想が実現される社会である。

ゆたかな社会と評価されるためには、5つの基本的条件を満たさなければならない。

❶美しい、ゆたかな自然環境が安定的、持続的に維持されている。
❷快適で、清潔な生活を営むことができるような住居と生活的、文化的環境が用意されている。
❸すべての子どもたちが、それぞれの持っている多様な資質と能力をできるだけ伸ばし、発展させ、調和のとれた社会的人間として成長しうる学校教育制度が用意されている。
❹疾病、傷害にさいして、そのときどきにおける最高水準の医療サービスを受けることができる。
❺さまざまな希少資源が、以上の目的を達成するためにもっとも効率的、かつ衡平に配分されるような経済的、社会的制度が整備されている。

ここから社会的共通資本は、次の3つに大別される。

❶自然環境(大気、森林、河川、水、土壌など)
❷社会的インフラ(上下水道、電力・ガスなど)
❸制度資本(教育、医療、司法、金融制度など)

社会的共通資本としての知識

さらに社会学者の大澤真幸は、著書『新世紀のコミュニズムへ 資本主義の内からの脱出』において、「現在の格差にとりわけ大きな責任があるのは、社会的共通資本としての知識の私有化である」と指摘している。

大澤が問題視しているのは、ぼくたちの生活に標準化されているIT技術・知識に私的所有権を設定することだ。

「IT関連の技術・知識の大半は、特定の個人や企業の貢献に帰することができない、集合的な営みの産物であ」り、すなわち社会的共通資本である。

したがって、サイバースペースをコモンズとせよ。大澤はこのように主張しているのだ。

21世紀の社会的共通資本を考えるにあたって、大澤の主張は見過ごせない。

社会的共通資本の管理基準

ところで、社会的共通資本をめぐる議論において最も重要なのは、その管理方法である。

宇沢は言う。

社会的共通資本は、それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるものであるということである。

別の言い方をすれば、社会的共通資本は、行政的な基準、官僚的な基準、市場的な基準によって行われないということだ。

こうした観点に立つと、例えば近年進められきた水道の民営化や公的医療機関の統廃合は、社会的共通資本を解体する動きであったと言える。

社会的共通資本の解体が招く悪夢

しかし残念ながら、社会的共通資本の解体は、資本主義社会の宿命である。

というのも、資本主義社会の生き方の最適解が「俺の物は俺の物」という個人主義的生き方に他ならないからだ。

さらに、ドラえもんに出てくるジャイアンのように、「お前の物も俺の物」と相手を言いくるめることができれば(暴力的か非暴力的かは問題ではない)、資本家として成功する確率が格段に高まる。

だから、社会的共通資本を集団的所有ではなく、私的所有権に切り替えていくというのは、資本主義社会においては当然の帰結である。

こうしてぼくたちは個人主義的なライフスタイルを歴史的に獲得してきたわけだ。

「自治会には入りません」「労働組合には入りません」「PTAには入りません」「会社の飲み会は遠慮します」などなど。現代をスマートに生きるエッセンシャル思考のニュータイプは、本当に自らが価値を見出せるものだけにお金と時間を投入しようとする。

ニュータイプの言動が支持されるのは、それが既存の集団が抱える問題点のアンチテーゼとなっているからだ。ぼく自身、既存の集団が抱える問題点に辟易してしまうことはよくある。

しかし、そのうえで言おう。

個人主義的な言動の強化は、社会的にアドバンテージのある人びとにとって有利に働き、そうではない人びとにとっては不利に働くのだ、と。

大事なことなので、言い換えよう。

人びとのつながりを断絶し、一人ひとりを市場化してうまく生きていけるのは、社会的にハイステータスを確立している人びとだけだ。つまり、資本主義社会の勝者だけである。

こうして社会的にビハインドを負った人びとの挫折感はルサンチマンと化し、「既得権益層」なる人びとへの憎悪を生み出す。

さらにそのルサンチマンは倒錯し、自分よりビハインドを負った人びと=社会的弱者への容赦のない攻撃性へと転化する。

その結果、政治的にはポピュリズムの台頭を招くことになるのだが、それが結局自らの不遇をさらに悪化させるという悪循環を生み出すのだ。

ぼくたちは無限の負のループに誘い込まれ、そこから逃れることができない運命にあるのだろうか?

孤独と連帯のあいだに

ところがいま、社会的に弱い立場に置かれた人びとが自ら声を上げ始めるようになってきた。

アメリカ在住の文筆家・佐久間裕美子は、社会変革の主体として「私たち」という共同幻想が再び立ち現れてきている現実を次のように述べている(『Weの市民革命』)。

だからこそいま、パンデミックが生み出した新たな現実が、それまで必要だと言われながら実現しなかった、社会の変革を生み出している。これは一夜のあいだに起きたことではない。社会の構成員一人ひとりが同じ権利を与えられ、教育や医療に平等にアクセスでき、安全に暮らせる住居を確保できる-パンデミック以前からそんな未来を求めてきた、根強いプログレッシブ運動の結果である。彼らが思い描く未来は、市場優先の資本主義や個人の選択の自由を重んじる旧世代からは「社会主義」とのレッテルを貼られることもあるが、新時代の「We」は社会全体の集合的な利益だけを追求するものではない。一人ひとりが差別や抑圧を受けずに生きられる世の中を目指し、自分以外の誰かのために、声を上げたり、行動を起こすから、「We」なのだ。

いままさに新時代の「私たち」という共同幻想的主体が立ち上がりつつある。

「私たち」という共同幻想は、社会的共通資本を復権させる運動においてこそ立ち上がる性質のものだ。

思想家の内田樹は、社会的共通資本(コモンズ)の管理には「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になると言い、社会的共通資本の価値はこの気配りの主体である「私たち」という共同幻想を立ち上げることにあったと指摘している。

社会的共通資本を復権させる運動は、現代においては、単に既存の社会的共通資本を復権させるだけではなく、サイバースペースという新たな社会的共通資本を勝ち取る運動でもある。

声を上げる人びとがいて、その運動の中で社会的共通資本の復権と拡充が行われ、さらに共同幻想的主体が強固になる。するとさらに、社会的共通資本の復権と拡充は進む。

したがって、社会的共通資本(コモンズ)が復権し、さらに拡充する可能性はある。

これが冒頭の問いに対する現時点でのぼくの答えだ。

決して一人では生きていけないなら、なるべく多くの人びとと連帯したい。

しかし一方で、「私たち」のもつ排他性については、極力排除しなければならない。

(うぅー、めんどくさい。。。)

現代社会の課題を解決する糸口は、孤独と連帯のあいだにしかない。

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