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NHKの名アナウンサーを追いかけてみるvol.3。瞬間芸術の人「或るアナウンサーの一生 評伝 和田信賢」山川静夫(文春文庫)

あの時もこの時も、そこに和田信賢がいた。

 和田信賢、通称シンケン、正しい読みはノブカタ、NHK史にその名を残すスターアナウンサーです。歴史の転換点につどつど立ち合い、ご自身も劇的な人生を歩まれました。著者はNHKの後輩であり、やはりアナウンサーとして一時代を築いた山川静夫です。山川は書き手としても、多くの味わい深い作品を残しています。和田について誰かが書き残すべきと考えているうちに時が過ぎ、ついに自ら筆を執る決意をして書き上げたそうです。

 アナウンサーの草分けと呼ばれる松内則三、河西三省、山本照といった人々は転職組でしたが、和田は昭和9年にNHKアナウンサー公募の第一期生として入局しました。最初の新卒採用アナウンサーで、まさに生粋のNHK育ち。ラジオの勃興期から全盛期までジャンルをこえて活躍しました。

 和田信賢は明治45年に神田小川町で生まれ。恵まれた家庭で、祖母からは猫っ可愛がりされた甘えん坊の一人っ子です。大正デモクラシーの世に物心つき、昭和モダニズムのさなかに思春期を過ごし、ラジオっ子となっていきます。

 東京育ちの山本夏彦や小林信彦といった作家は、戦前の東京の欧米文化の影響と街の沸き立つようすについてよく触れています。山本夏彦は昭和8年を戦前のピークとし、物はあふれ、人は浮かれ、この時代の東京をこえたのは30年代になってからといいます。国民経済は悪化しているにもかかわらず、海外から新しい文化が怒涛の如く流入し、それに飛びつくイケイケムードのなかでラジオは目覚ましい成長をみせていました。

 昭和9年の一月にNHKアナウンサーの公募を目にした信賢は、在学中の早稲田大学を3年で中退する覚悟で採用試験に臨みます。志望者数は約700名でおよそ20名を採用。35分の1は今より低い倍率ですが、当時は教育格差も大きくこのような受験にのぞめる階層自体が少なかったでしょうから、一概に判断はしにくいと思います。

 まずは昭和9年1月13日に、東京芝愛宕町の東京慈恵会医科大学で音声予備調査試験が行われ、「趣旨、煤、鮨、志士、繻子」といった単語で発音とアクセントを調べられ、110名に絞り込まれました。江戸っ子の信賢は苦労しなかったようです。二次が作文と一般常識の筆記試験で63人が残り、最終の三次が音声本試験、面接、身体検査で25人が採用されました。全員男性です。

ー信賢は昭和9年3月1日付で「アナウンサー見習い」に任命され「給月手富参拾五圓」の証書を受けた。当時、行員の月収が三十円から五十円であった。

 信賢の25人の同期のなかに竹脇昌作と服部逸郎の名前があります。竹脇昌作は俳優の竹脇無我の父親で、そのマダムキラーボイスで一世を風靡しました。服部逸郎はレイモンド服部として作曲家として実績を残しています。のちに活躍した二人ですが、竹脇は養成期間中に一か月で解雇、服部は大阪赴任の辞令を受け大阪では音楽活動ができないと退職、二人とも早い段階で辞めています。人生の不思議ですねぇ。

ーこの顔ぶれが、結果的にNHKアナウンサの第一期生となり、それ以前から活躍していたアナウンサーは「有史以前の大先輩」という尊称が与えられるようになる。

 メディアの主役となったラジオの第一期生となった和田信賢は、スポーツで、戦争で、歴史的事件の現場に遭遇します。

なにかが起きる場所にいることも才能である。

  和田信賢の特異な点は、即興的に描写して伝達する実況と、作品の正しい解釈と適正な表現が求められる朗読の両方で高い能力を示し、二つの違った仕事を追求したことが相乗効果をもたらしていったことにあります。

 入社2年目には、東京で初めてのプロ野球中継の実況を担当し、本番で松内則三と担当チームを分けた掛け合い実況という新機軸にぶっつけで挑戦しています。

 同じ年の秋に、文芸作品を連続ラジオ小説として電波に乗せる最初の試みがありました。漱石の「三四郎」のなかで玄人の俳優に混じり、信賢は解説・朗読を担当しました。ちなみに演出は山本嘉次郎です。この仕事で信賢がアナウンサーの技術に加えて、奥行きを出すことに悩みぬきました。その甲斐あって「三四郎」の朗読は和田信賢の声を一気に全国区にします。

ーたしかに「三四郎」の朗読は信賢の名声を高めた。信賢は「ラジオ小説」という新しい分野を放送の中にひらき、「声優」の元祖となった。世間から”和田調”ともてはやされ、ことに、全国の若い男女の圧倒的な支持を得て、一目和田信賢に会いたいと、花束や菓子折りをたずさえて愛宕山を訪れる人々は日ごとに増えた。

 しかしご当人は・・・

ーそれでも信賢の心はもう一つ晴れなかった。それはアナウンサーが、もう一歩踏み込んで専門的な研究ができないという組織的な歯がゆさだった。

 アナウンサーの表現を模索し続けたのですね。それは和田信賢が努力し能力を高めるほどに、アナウンサーの枠に収まりにくくなっていったとも取れます。とはいえ洒脱な江戸っ子ですから、まじめに眉間にしわ寄せひとりこもるというタイプではなく、飲んで遊び、女性にもかなりモテました。

ー信賢の魅力の一つに、私は、彼の無頼性をあげる。意識してそうふるまったのかも知れないし、また、信賢のかくれ蓑だったのかもしれないが、それはどうでもいい。実際、彼の無頼性は板についていた。そこから男が匂った。男の色気とは、そういうものかもしれない。            この信賢の無頼性がなせるわざか、彼は、何事によらず一流品を好まなかった。菓子を例にとれば、一流の老舗の最中や羊羹より、駄菓子屋の豆大福や串団子の方がよかった。(中略)浅草の二流劇場である義太夫座とか江戸館を愛し、またそこに出てくる芸人の芸を楽しんだ。放送局が名の売れた芸人だけを出演させる傾向があることについても、信賢は不満だった。本当に面白く味のある芸人の芸は、とても放送という限られた枠の中では表現できないと思っていた。

 今も芸をテレビサイズとかテレビフレーム向きと、放送の枠に収まりやすいかどうかで判断していますよね。優れた多くの人に知らしめたい芸であっても、放送への向き不向きで取捨選択せざるを得ないのです。芸能番組制作者たちにつきまとう悩みですが、この当時からあったのですね。芸人にとっても枠を超えた芸を目指したときに、悩みの種となるところです。

 放送で名は高まったが、自分の芸にはまだ至らないところがある、でもそれを追求したとて、放送には向かないかもしれない・・・などと信賢は悩んでいたのかもしれません。

「双葉山敗る!」からポツダム宣言受諾文まで。

 つくづくアナウンサーはシビれる仕事だなぁと思います。いかなる状況でも、いや極度の緊張がともなう重大な場面ほど、一言一句言い間違えが許されないのですから。

 1939(昭和14)年1月15日、大横綱双葉山の連勝ストップを実況したのは和田信賢でした。普及率が40%を越えた当時のラジオの看板中継番組といえば大相撲と大学野球でした。なかでもこの大相撲春場所の注目は双葉山の70連勝なるか、年二場所制(1場所13日)時代ですから驚異的な記録です。まさに国民的関心事となっていました。この場所の実況アナウンサーは島浦精二、山本照、和田信賢。担当は初日から70連勝のかかった4日目までが和田、5日目から8日目までが島浦、9日目から13日目千秋楽までが山本照です。盤石とみられていた70連勝までは若い和田が担当し、次の80連勝までの道筋をベテランが盛り上げていく感じだったように思われます。。

 ところがこの4日目、結びの大一番を前に2大関が敗れるという波乱が起こり、場内騒然としたなか69連勝の双葉山が土俵入りします。相手は安藝ノ海、信賢の聞かせどころです。

ー「不世出の名力士双葉、今日まで六十九連勝、果して七十連勝なるか、七十は古稀、古来稀なり」しきりに、そう放送している。

ー「双葉右が入った、右が入りました!」 (中略)          全国の相撲ファンは、こりゃ時間の問題だと、双葉の七十連勝を確信したにちがいない。安藝の得意な左の四ツにならなければ話にならない。

 しかし、ここから投げで体勢を崩した双葉山に、安藝ノ海が体をあずけ重心を崩すと、双葉こらえきれずに左ひじから土俵に落ち、連勝が止まります。

ー若い担当アナウンサーはわが目を疑った。土俵中央に双葉山が倒れている。信じられないことが起こったのだ。                「双葉山は確かに負けましたね」                   彼はマイクから素早く口を外すと、かたわらの小柄な先輩の耳元で怒鳴った。                                「うむ」                              聞かれた相手は唇を噛みしめるようにしてうなった。わずか五秒の確認だった。あとは夢中で連呼した。                     「双葉山敗る、双葉山敗る、双葉山敗る・・・」             相手も、決まり手も、あとから言えばよい。双葉山が負けたことが大ニュースになるのだ。ゴーッという二万人の嵐のような大歓声の中で、アナウンサーは必至で連呼した。

ー「時、昭和十四年一月十五日、旭日天正に六十九連勝、七十連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭安藝ノ海に屈す、双葉七十連勝ならず!」

 国技館の堅いせんべい蒲団から、煙草盆や火鉢まで飛んでくるなか、信賢は頭から布団をかぶって絶叫しました。ちなみに勝敗を確認された小柄な先輩は山本照です。得意の名調子で絶叫していた信賢から決まり手を聞かれたとき、大相撲実況の手練れだった山本もすぐに答えられないほど動転していました。連勝は長くなればなるほど、どこまで伸びるかよりも、どこでどう止まるのかが興味になっていきます。そこに当たるのは運と言うか、引き寄せというか。

 1941(昭和16)年12月7日、この日の夜の当番勤務となるのもまた運でしょうか。国内放送が終わり日付が変わった8日の午前零時、放送指揮室にいた信賢は海外局から至急の連絡を受けます。午前1時からの海外向け日本語ニュースの間に”西の風晴れ、西の風晴れ”という言葉を挿入せよとの情報局からの命令です。午前四時には再び情報局から”只今から気象管制に入ります。天気予想はありません”の指示。そして午前5時に陸軍省から6時に重要発表があるとの電話・・・・・・こんな風に放送局の戦争は始まるのですね。

ー午前六時五十分頃、指揮室の信賢の前の電話が鳴った。陸軍省に行った永井からだった。「何事ですか?」「とにかく至急原稿をとって下さい」声が上ずっている。果せるかな、大変な内容だった。            「大本営陸海軍部発表、十二月八日午前六時、帝国陸海軍は本日八日未明、西太平洋上において米英軍と戦闘状態に入れり」            信賢はほとんど何も感ぜずに鉛筆を動かしていた。報道部の田中が首を長くして待っている原稿が、間違って指揮室に入ってきたのだ。

 このあと信賢は、本来自分が受け取るべきでなかった開戦発表の原稿を報道に届け、七時の時報と同時に、館野アナウンサーが読む世紀の大発表が全国に流れます。運動や芸能を担当する信賢が関わる可能性が低いのですが、そこにいてしまうのです。記録映像などで耳にする発表後の「軍艦マーチ」は、繰り返される発表にブリッジが必要と考えた信賢が選曲したものです。

 1945(昭和45)年8月、9日から15日正午まで放送局に缶詰めになり待機させられていました。この間に「終戦の詔書」をめぐる攻防があったことは、ノンフィクションで映画化された「日本のいちばん長い日」でも有名ですよね。15日正午の玉音放送は、陛下の録音と下村情報局総裁による進行が第八スタジオから行われ、解説や情報にあたる内容を和田信賢が伝えました。

ー私は別室からアナウンスをしなければならないので、報道部の部屋でポツダム宣言竝に終戦の詔勅を下読みしていた。この下読みをしている間は、別になんの考えもなかった。もうただ忘我の境無我夢中であったということが出来よう。

ーマイクロフォンの前に座った。アナウンスを始める。こみあげてくる嗚咽に、一語一語はやはり途切れがちになった。その度毎に私は唇を噛みしめ、唇かみしめ、どうやら一時間のポツダム宣言受諾文を読み終つたのである。

 和田信賢は開戦のニュースをとり、終戦の締めくくりをアナウンスしたわけです。そこにめぐり合わせるのは、放送人としての強い業を持った人のように思えます。

命がけのオリンピック実況と瞬間芸術

 戦時中もNHK上層部の庇護を受け、羽振り良く気ままにふるまえていた信賢だが、戦争が終わりNHK内部でも組織改革が行われると、うしろだてを失い山形への異動を命じられます。山形に全国区の人気者であった信賢の居場所はなく、ほどなくして辞表を出し東京へと戻ります。

 NHKを辞めた信賢は「もう放送局のマイクの前には立たない」と啖呵を切っていましたが、局のほうも今までのように番組を創れる環境ではなくなっていました。当時の放送は駐留軍統制下にあり、どんな番組でも事前の検閲を受けなければならない不自由な時代でした。そのような状況下でCIE(民間教育局)が今まで日本になかった番組を開発し、その担当者がかつて知ったる信賢を司会に起用します。

ークイズ番組を日本に導入したのはCIEである。日本初のクイズ番組は昭和二十一年の十二月に始まった「話の泉」である。アメリカのクイズ番組"Information Please"の焼き直しだった。ゲスト解答者は、もれなくCIE主導のオーディションによって選ばれた。選考はなかなかきびしかったらしいが、応募者にはアメリカのコカ・コーラとホットドッグが出るというので、落ちてもいいからコーラを飲みたい一心で受けたのだという笑い話もある。

 「話の泉」は有名文化人の解答者たちが一般公募したクイズ出題に対し、司会者とやり取りしながら答えていく番組です。信賢の機知にとんだ司会で大人気番組となりました。地方に飛ばされた男が、NHKの看板番組のメインMCとして返り咲いたのです。しかし人気司会者にはなりましたが、アナウンサーとして抱き続けていた夢からは遠ざかってしまいました。オリンピック実況です。

 信賢は長年オリンピックアナウンサー第一候補と言われながら、戦争での中止もありオリンピック実況の担当しないまま、現役アナウンサーを退きました。しかし夢は捨てきれず、それがまた酒を呼びます。ところが内部のごたごたを経てヘルシンキオリンピックに、嘱託の身分の信賢が派遣されることになったのです。またもや引きの強さを見せたのですが、信賢の体は病に深くむしばまれていました。肝臓がやられ黄疸が出て血圧は異常に高い、そんな病をおし隠してヘルシンキに飛びます。

 天才アナウンサーが念願のオリンピックへ行けばさぞかし歴史の残る名実況が・・・と期待したいところですが、信賢の病状は思わしくなく、会場やホストタウンの雰囲気をスケッチするような内容にとどまります。体調はすぐれず、夢にまで見たオリンピックを思うように語ることができない。つらかったでしょうねぇ。

 そして大会終了後の病状は悪化し、帰国もままならず、入院したパリの病院でその生涯を閉じます。わずか40歳でした。山川静夫のあとがきも素晴らしく、同じアナウンサーならではの情を感じます。

ー信賢のゆくところには必ずなにかが起こった。彼の存在感の大きさが何かを起こさずにいられなかったのである。仕事、酒、女・・・良くも悪くも常に放送仲間の話題の中心に置かれ、問答無用であった。周囲も閉口したであろうが、信賢も、照れつつも耐え、努力し、走り続けたのである。時には本能のおもむくままに放蕩もした。信賢は絶えずそれとなく自分で自分を演出して見せたのかもしれない。それが又、新しい話題を生んだ。

ー仕事への執着は人一倍近く、信賢のすさまじいほどの執着心や向上心が、他の人の目からは”天才”とうつったのではないだろうか。        信賢は、ともすれば古き良き時代のカリスマ的存在とみられがちだが、そうではなく、時代の要求するものをいつでも取り出せる不易流行のセンスがあったという点で、単なる昔のアナウンサーではない。

ー信賢は自分の仕事に「瞬間芸術」という表現を使ったのだが、その通り、彼は身の廻りのひとつひとつ一瞬の燃焼にかけた。そして、ヘルシンキオリンピックの特派員として渡欧の帰途、パリで劇的な死を遂げた。わずか四十歳、まさに障害までが瞬間芸術だったという気がしてならない。

 舞台の芸が才能と修練の揺るぎない結晶を見せるのにたいし、放送は今の熱や空気を様式を変えながら伝えます。その中で実況アナウンサーは、瞬間を言葉にかえて歴史に刻み込むことのできる仕事です。心身ともに充実した和田信賢のオリンピック実況を、つくづく残してほしかったですねぇ~。


 

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