『推し、燃ゆ』感想(2023/04/12)

四足歩行でしか生きられない僕たちに

美しい書き出し

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。

宇佐美りん「推し、燃ゆ」

書き出しの3文。
端的で綺麗。これだけで、この小説には価値がありました。

最初の数文でどれだけの情報が伝えられるか、想像をかきたてられるか。
例えば、個人的に好きな文章として、

あの泥棒が羨ましい

江戸川乱歩「二銭銅貨」

たった一言。
その中に3つもの役割があるのです。

①「泥棒」が「羨ましい」というアンバランスさで読者の興味をそそる
②「泥棒」がテーマになることを提示
③「泥棒をうらやむ」ほど生活が困窮している→困窮家庭もしくは学生というイメージが出来る

今回の「推し、燃ゆ」には、「推し」というものが分からない層が、タイトルに惹かれて読む、という狙いがあります。彼らに、「推し」と「推しを推す者たち」その生き方を物語の中で伝える、そんな小説。

書き出しの「推しが燃えた」では、タイトルにある「推し」「燃ゆ」を一発目で投入。「推しとは?」「燃えるとは?」と読者を疑問符の渦に陥れます。

そして、次の「ファンを殴ったらしい」で疑問を一気に解消します。
・「推し」にはファンがいる……アイドル的な存在である
・殴ると「燃える」……ネット炎上のことだと推測できる

最後の文については説明を省きます。読んで考えてみてください。
美しい文章で綴られる、肉体感のある推しを推す者の話です。是非。

私たちは本当に二足歩行できているのか

本作と「推し」

愚問だった。理由なんてあるはずがない。存在が好きだから。

主人公の「あかり」。友達の「成美」
あかりは一人絶対の推しを抱え、周りの有象無象として扱われても構わない。
成美は推しは変遷するもので、触れ合いを求めるタイプ。
二人の存在は「推し」に対するスタンスの違いがあることを表しています。

あかりは全存在を懸けて推しを推す。
「推し」がなければ生きることもままならない彼女は、言うなれば「四足歩行」
そんな彼女が経験する推しの炎上、喪失。

果たして私たちは、ちゃんと二足歩行出来ているのでしょうか。

私と「推し」

そもそも私は「推し」という言葉が好きではありません。
言葉の意味が軽い、いや、「軽くあるべき」とされているから。
「推し」のファンは、気儘に活動する「推し」を文句も言わずに純粋に応援し続けて、ファンが増えることを願って、結婚したら祝福し……、私には到底できなかった。
そんな中、「推し」に全身全霊捧げるあかりの姿は、絶望的な状況にあってなお美しく、強い共感を覚えました。

私にも好きなVtuberはいます。
「推し」とは呼びませんが、その人の存在に、救われているというたしかな感覚があります。
私はその人が存在するだけでいいですし、それ以上を求めません。
もちろん好意的に思われたり、触れられたりするに越したことはありませんが、一挙手一投足に揺らぐ身としては、あまりに遠く、あまりに熱い存在。いまいち現実感が湧かないのです。
同時に「呪い」……いわゆる同担拒否。
その人に関する言説を見たくないですし、自分のほかにその人のことが好きな人を知りたくない。そのためなら当人をブロックしようかと思うくらいに。

「救い」と「喪失」双方を味わったことのある身からすると、「推し、燃ゆ」にリアリティはあっても、答えの光はありません。四足歩行をする自分たちの生きざまを、まざまざと見せつけられています。

これからも、私、いえ、私たちは意味の分からない妄言を宙に吐き出して、「推し」に縋って生き続けていくのでしょう。それでいい。それでいいのです。けれども、先に本当に救いはあるのでしょうか。自分の骨を自分でひろうことはできるのでしょうか。
何か考えるべきところがあるような気がします。

引用したい言葉がいっぱいあるような気がしましたが、やめました。
私はこの小説の一面について話したに過ぎません。
あなたも、本を手に取って、自分の在り方を見つめてみませんか?

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