魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その18 中国の正史と日本神話での倭国
今回の記載内容については、既に知ってる人にとっては常識の範疇なのですが、初めて目にした人にはかなり驚きの内容だと思います。神武東征について考えてみたいと思います。
□実は中国の正史には倭国の天皇の発祥は九州と書かれている
『新唐書(1060年完成)』には、以下の記載がある。
まず、王の姓が阿毎(あめ)と書かれている。初代の名前もあり、尊(みこと)が称号だ。尊は、言わずと知れた、その後の天皇である。このアメ(阿毎)というのは、つまり、天(あめ)の事だと思う。現在は天皇家だけが唯一姓はないが、古来はあり、それが天(あめ)だったという事になる。
『古事記』では、一番初めに生まれた神として、「天(あめ)と地(つち)が初めて出来たとき(いわゆる有名な天地開闢のとき)、高天原に現れた神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)」という三柱の神が書かれている。なんと、最初の神の名前は一致している。最も一致しているのは当然で、中国側の記録に書かれているだけで、これらの情報元は、日本側からの情報が大半だと思われる。例えば、日本の使者から渡された上表文、日本に渡来や渡航してきた役人や僧侶等からの手紙や報告書、使者が日本から持ち帰ってきた書籍、帯方群からの報告書などが元になっていると思う。
日本史においては、神武天皇は、日本の初代天皇となっているが、ここでは、それ以前は尊(みこと)として存在しており、名前の呼び方が天皇に変わっただけであり、存在の位置付けは全く同じだ。日本の本当の初代天皇は、「天御中主天皇」だったのかもしれない。
「筑紫城」というのが、現福岡県で昔の筑紫国にあった尊の住んでいた城で、その後、東征して、大和州というのが、現在の近畿の奈良県、昔の大和国に移ったという説明内容になっている。
つまり、倭は元は奴国つまり、邪馬台国の女王国があった倭であり、その主である尊は、代々、筑紫国(九州北部、現福岡県)に住んでいたということが、書かれている。日本の元々の天皇家は、筑紫にいた事になる。
さらに、『宗史(1345年完成)』には、以下の記載がある。
こちらにも、倭は元は奴国つまり、邪馬台国の女王国があった倭であり、その主、尊は、代々、日向宮(福岡の筑紫や九州の宮崎や筑紫の日向など、諸説の解釈があるが、いずれにせよ九州内にはなる)に住んでいたことが書かれている。筑紫都より大和州橿原(柏原)宮に入居とあるので、一番普通に解釈すると、やはり旧筑紫国(現福岡県)の都より、大和に都を移したという理解になると思う。
私は、「筑紫日向宮」というのは、例えば、「京都の元離宮二条城」のように、「筑紫(場所)の日向宮(建物)の意味」であり、現在の福岡県福岡市の筑紫の事で、日向宮というのは、そこに太陽に向かって東向きに建てられていたからや、太陽神から生まれた尊の住居だからなどで意味合いの、住居の呼び名だったのではと思っている。筑紫国内の日向という地名の場所にあった住居だから、日向宮殿と呼んでいた可能性もあると思う。
『新唐書』では32世が、『宗史』では23世となって数字が逆転している。こちらには、23世の名前も記載があるため、32世は、写本時の数字の写し間違いで、23世が正しい方だと思う。中には、『古事記』や『日本書記』にも登場するような有名な神々の名前も存在している。神々も実在した人物だったのではと思うと、やはり太古へのロマンを感じてしまう。
このように、中国の正史には、はっきりと九州内に代々倭の都があったことが書かれている。なお、周の僖王の時代は、紀元前681年~前677年となる。ちなみに、日本書記では、記載内容から年代を算出すると、神武天皇(『日本書記』では、かむやまといわれびこという名前で、後に神武の称号が割り当てられた)の即位は、紀元前660年2月11日となるそうだ。遥か古えの時代の話しである。
だいたい同じ年代を示す内容となっているのが、凄いと思う。なんらかの日本側からの伝承や記録などからに基づく説明によるものだと思う。これが、もし、日本書記の方が後から書かれた資料ならば、日本側が中国の記録に合わせて辻褄合わせが行われたかもと思う。しかし実際は、この中国側の資料の方が後からの時代の記録であるため、中国側がわざわざ日本の歴史書を読んで計算して合わせるとは思えないため、当時の倭国の使者が中国側に伝えた内容から、だとすれば、周の僖王の時代になると判断してから記録しただけだと思う。
ただし、実際に紀元前6世紀頃の出来事なのか、紀元前後の時代なのか、あるいは4世紀前後やそれ以後の出来事なのかは分からないと思っている。なぜならば、初期の頃の日本の神話時代の各天皇は、100歳以上の年齢を生きており、遡る年数は現実的ではないからだ。通常の平均寿命に置き換えて成人してからの治世の年数で計算すると、紀元前6世紀よりも、もっと新しい時代となる。
□年代を想像すると
日本の初代天皇であるはずの神武天皇は第24代天皇となり、天御中主が初代天皇となる。そして、代23代天皇の彦瀲までは、筑紫に住んでいた事になる。
仮に、歴代24代の天皇の平均治世が以下の年数だとすると、だいたい以下のような年数の期間がその統治期間となる。
平均10年 240年間
平均15年 360年間
平均20年 480年間
現実的には3世紀半ばまで、九州北部の倭国が大活躍しているため、仮に、3世紀〜6世紀に神武東征のような出来事が実際にあったとした場合、九州での天皇の統治期間は、以下のような期間に相当する。
3世紀 紀元前2世紀〜1世紀
4世紀 紀元前1世紀〜2世紀
5世紀 1世紀〜3世紀
6世紀 2世紀〜4世紀
空白の謎の4、5世紀に神武東征のような出来事が起きたとすると、丁度、九州北部の倭国時代と同じ期間に相当する。
□実は日本側の歴史書にも神武東遷がある
実は、『古事記』、『日本書記』でも、神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ、神武天皇の元々の呼び名、漢字二文字の名前は後から付けられた称号)は、天照大御神の五世の孫で、筑紫の日向から大和国に東征をして、畝傍橿原宮(現在の奈良県奈橿原市久米町)に都して、日本国を建国したと記載されている。神話上の人物であり、初代天皇となっている。
ここで改めて強調したいのは、中国側の資料にも、日本側の資料にも、「倭国の主である尊(みこと)は元々九州に住んでいた。そして、神武天皇の時代に機内の大和へ移動して遷都した。」という「神武東遷」の記載があるにも関わらず、日本の歴史の一般的な通説は、「機内にあった卑弥呼の邪馬台国(ヤマタイ→ヤマト)が、やがてそのままヤマト政権になり、そのまま日本の天皇家になった」という考え方が主流だ。なぜこのような解釈が成り立つのか。この通説は、本当に正しいのだろうか。ここを考察してみたい。
□なぜ東遷説は、歴史の定説にならないのか?
なぜこのような理解になるのか、普通に記録された情報を解読すれば、今の通説は相当に不思議な状況だと思う。ただ一言で言うならば、神話は神話の世界として捉え、現実は現実世界として切り離して捉えているからだと思う。
もし、中国の歴史書と日本の歴史書の記載内容が全く異なる記載内容だったならば、もし、中国の歴史書と日本の歴史書も、どちらの内容も全く信用出来ないから全て無視しているならば、話しは分かる。しかし、実際には、どちらも同じ内容で、日本国内での中国の資料の扱いはともかく、『日本書記』や『古事記』は、日本においてかなり重要視されている。にもかかわらず、なぜここだけは事実から切り離して捉えられるのだろうか。
なぜこういう考え方になるのか、主な理由は3つあると思う。
①神話は、おとぎ話、架空の想像物語であり、現実に起きた話しではないという捉え方
神話の中には、黄泉の国行ったとか、みそぎをしたら大地や神が生まれたとか現実にはあり得ない話が書いてあり、東遷も同様の架空の物事という解釈
(最近は、世界的にも、日本の中でも聖書や神話や伝承の中の話が、実は架空の物語ではなく、なんらかの実在した話を元にモデルにしていると見直されているケースが増えてきてはいます。)
②圧倒的な古墳時代の巨大な古墳郡から、前後の時代を線で繋げたステレオタイプな物事の捉え方
機内に古墳時代の巨大古墳が集中してあり、ヤマト政権が誕生したのは事実なので、遡ってそこが発祥、そこから発展したと考えるのが一番自然な解釈
③日本における考古学と歴史学による分類やアプローチの違いにより、それぞれの解釈が生まれる
考古学は、「出土したものを調べる」、歴史学は、「書かれたものを調べる」とアプローチがことなり、この違いにより捉え方が異なりやすい。
考古学の分類は、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、それ以降の歴史時代となり、歴史学の分類は、古代(古墳時代から)、中世(平安時代から)、近世、近代、現代のように分類する。弥生時代と古墳時代は、ちょうどそれぞれの分類の切れ目の時代となっていて、解釈の分断が起きやすい。
ここで、少し回りくどいが、試しに以下のような主張を書いてみる。
これらの主張が、事実とは異なることは現代人ならば誰もが知っている。しかしながら、もし正しい歴史の記録が残されておらず、正解が分かっていない場合に推測したならばどうだろうか。時代の流れを捉えるとき、人は一直線な考え方、きっと昔から、きっと前からと固定観念を持ち、ステレオタイプな捉え方で判断をしてしまいがちだ。
このような一直線な考え方は、大局的にはだいたいのケースで正しいのかもしれないが、局所的には、決して、毎回、必ずしも正しいとは限らない。
最後にもう1つだけ類似の想定での主張を書いてみる。
この解釈は正しいのだろうか。もちろん、今時点において、本当に正解か不正解かは分からない。しかしながら、少なくとも、『新唐書』、『宗史』、『古事記』、『日本書紀』の各記載内容は、「No」と言っている。私も、これらの先人が記録してくれた価値ある歴史書に書かれた内容、つまり当時の人達が信じていた歴史を素直に信じたいと思う。
□日本神話で、神々の生まれた場所
ここで、日本側の資料より、日本の神話では、神武天皇の祖先である天照大御神が、どこの出身なのかを考察してみる。
神産みの神話では「伊邪那岐命が黄泉国の穢れを落とすために海水で禊を行なうと様々な神が生まれた。最後に、左眼から天照大御神、右眼から月読命、鼻から須佐之男命の三貴子が生まれた。伊邪那岐命は三貴子にそれぞれが、高天原(天照大御神が支配)、夜(月読命が支配)、海原(須佐之男命が支配)の統治を委任した。」というような記載がある。中国の『宗史』にも歴代の尊(みこと、つまり天皇)としての記載されていた3人の名前が書かれている。
高天原、つまり、人々が住む現実世界(太陽神)である大地と、夜の世界(月の神)と海の世界(荒ぶる神)の3つに分けているのも興味深い。太陽や月へのありがたみ、神秘性への憧れや、夜の闇や荒れた海への恐れなどが見てとれる。海水でみそぎをしている点、太陽神、月神への信仰、海洋民族をルーツとする海の重要性や海の怖さを知っている、かつ農業に重要な太陽のありがたみの農耕民族の世界観が表れている気がする。
「天照大御神」は日本神話の主神であり、太陽神や巫女の性質を持つ女神だと考えられている。このため、卑弥呼(日巫女)だと考える説が存在する。
そして、なんと神々が生まれた(禊をしたら生まれた)場所も、実は、はっきりと記載がある。
『古事記』では、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」、『日本書記』では、「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の小戸(おど)の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)」と書かれている。
古事記
竺紫→日向→橘→小門→阿波岐原
日本書記
筑紫→日向→小戸→橘→檍原
これがどこを指すのか、全部固有名詞の地名なのか、一般的な場所を示す名詞なのか、実は分かっておらず、諸説ある状況だ。古事記と日本書紀で順番が一ヶ所違うのも、何か意味があるのか無いのか良く分からない。
筑紫は、日本の国産み神話では、九州島をつくしの島と書いているため、九州全体のことだ。筑紫は、現福岡県で、昔の筑紫国のことだ。福岡県福岡市にある日向峠や日向石のあたりのことだ。日向は、現宮崎県で、昔の日向国のことだ。日向は太陽の東向きの方向を示す意味だ。小戸とは小さな戸から転じて小さな狭い港を示すことだ。檍原は、粟(あわ)の原のことだ。橘は、柑橘類のことを示す意味だ。檍原とは、橿(かしい)や硬い木の別名なので、福岡県福岡市東区香椎のことだ。小戸は、福岡県福岡市西区小戸のことだ。阿波岐原は、宮崎県宮崎市阿波岐原町のことだ。このように、福岡県と宮崎県の解釈で、多数の候補が存在する。
まず、私の第一印象は、場所の固有名詞を準に並べるには五段階は長すぎると感じた。現在でいうと「日本→福岡県→福岡市→東区→香椎」、「日本→宮崎県→宮崎市→阿波岐原町→(数が足りない)」となる。現在でも、ちょっと強引に日本から数え初めてもやっと五段階や四段階だ。そもそも場所だけなら、例えば「筑紫(国)の太宰府(場所)」、「日向(国)の阿波岐原(場所)」の二段階で十分通じる。このため、全部が場所の固有名詞を書いているわけではないと思う。
仮に全て固有名詞ではなく一般的な名詞と解釈すると、「つくし(→ちくし)(島?平野?尽くし?境界?遠く?)の日の当たる場所の小さな湾の柑橘類があり粟の生えた場所」のような意味合いになる。「ちくし」が何かはおいておくと、どこにでもあるほのぼのとした日本の古代の風景が思い浮かぶ。このような意味での解釈が正しく、特に特定のどこかの場所ではなく、一般的な風景の場所を示しているという説もある。
この天地開闢からの国産み後の伊邪那岐が黄泉の国から戻った禊での国産みの神話は、実は、神道で各地の神社における祓詞(はらえのことば)としてもとても有名で、神事の前に必ず行われる禊(みそぎ)の時に唱えられる祝詞(のりと)となっている。
例えば、「かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはら にみそぎはらへたまひしときになりませるは (以下略)」というような祓詞だ。
このため、神道の精神世界の話しであるため、特定の実在する場所を述べている訳ではなく、宗教上、信仰上の架空の場所であるという説もある。
□自分なりに解釈すると
そこで、私の理解としては、先の中国の『宗史』に書かれていた「筑紫日向宮に都す」、「大和州橿原(柏原)宮に入居す」というような国の場所と宮殿の場所を意味するように解釈し、この場所は、単に生まれたわけではなく、黄泉の国から戻って「みそぎ」をした場所と解釈することにしてみる。古来より、禊をするのは、やはり神聖な場所であり、神殿や宮殿や神社等だと思う。
そうすると、「最初の竺紫・筑紫は、場所である現福岡県の筑紫地方を示し、次の日向は、宮殿である太陽の方向を向いた太陽神を表す帝の住まい、あるいは筑紫国内の日向という所にある宮殿の場所を表し、小門や小戸は黄泉の国から戻ったときの扉、もうそちらには行かない現世への扉を意味し、柑橘類や粟は神々へのお供え物や、死の匂いを消し去り、現世の人として生きていく食事をするの意味」だと解釈することにした。
このような解釈をしている説明を直接見聞きしたことはないが、私としては、考察した結果、こういう理解が一番納得出来たのである。
なお、神話については、歴史的な事実はしっかりと考察することとして、神話は神話として、様々な解釈や背景や意図があるのも含めて良しとして、楽しみたいと思っている。
ここで何よりも一番重要なことは、わざわざ、『古事記』や『日本書紀』にも、「九州出身」、「神武東征」が明確に記載されていて、中国側の王朝にも、天皇家のルーツは、九州出身だったという正式な説明をしている事だ。国内、国外に、宣言しているわけである。仮にこれらが事実で無かった場合には、なぜそういう記録、説明を残したのか、明確な意図、理由があるはずだ。少なくとも、九州出身にする必要があったことは確実だ。
⬛次回は、東遷の理由について
最後までお読み頂きありがとうございました。😊
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