謎の古墳時代を読み解く その8 謎多きキーマンとなる古代天皇の探索
今回は、これまで読み解いてきた時代、『日本書紀』が作成された8世紀初めの時代までを中心に古代天皇の中から謎が多いと思う天皇や皇后等について考察してみます。
(ここでは、「天皇」という呼び名で統一していますが、天皇は7世紀から8世紀前半に作られたと考えられる称号のため、それ以前は、スメラミコトやオオキミなど、違う呼称であったと思います。)
□天皇の諡号、贈り名について
まず古代天皇には、複数の名前がついています。大きく分けると、長い名前の和風の諡号と、漢字二文字の漢風の諡号があります。諡号(しごう、おくりな)とは、贈り名(おくりな)とも呼ばれ、通常は、死後にその人物の功績や高貴さや徳を表して贈られる名前のことです。
元々は、和風の諡号しかありませんでしたが、後に8世紀に中国を真似して漢風の諡号がまとめてつけられました。この漢風の諡号を古代天皇に名付けたのは、天智天皇の玄孫であり、奈良時代後期の皇族、貴族であり、当代随一のインテリ文化人であった「淡海三船(おうみのみふね)」だと言われています。名付けた人物は、歴史への深い造詣を持ち、すぐれた歴史考察力と観察眼を持ち、本当に抜群のネーミングセンスの持ち主だと思います。
古代天皇には、和風の諡号が複数あったりしますが、これは、『日本書紀』や『古事記』の中でそれぞれ複数の名前が書かれていたり、あるいは、『日本書紀』と『古事記』では、別の異なる表現の名前が書かれていたりするからです。他にも、諱が記録として残されていたり、追号と呼ばれる別の名前が贈られているからです。
ここでは、以下は、漢風の諡号を用いて表現や分析を行っています。
□ここで取り上げる天皇の選定条件について
歴代の全ての古代天皇を考察していくのは大変であり、かつキーマンとなる天皇をピックアップして考察したいため、ここでは、以下の5つの視点から謎多き天皇として選択している。なお、複数の条件に該当する人物は、それぞれに重複して記載している。
①天皇の名前に、「神」と「天」が付く名前の天皇
神は、まさに神を表していて、天は神が住む世界を表している。天皇家は、天界からやって来た神の子孫であり、「天皇」と呼ばれている。それにも関わらず、「神」や「天」を名前に持つのは、より特別な別格の存在だと考えられていたという意味だと捉えて取り上げた。必ず別格の存在である理由があるはずだ。
具体的な対象は、以下となる。
②『古事記』と『日本書紀』で、記載されている内容が大きく異なる天皇
記載内容が大きく違うということは、その内容について、どちらか一方、あるいはその両方共に事実とは異なる嘘があるという事だ。わざわざ国家事業である公式な歴史書の編纂に矛盾や嘘を書き残すと言う事は、どちらかが正しくなく、そう思わせたかったや、どちらかが隠したい理由があり修正したなど、必ず何らかの理由や意図があるはずだ。
具体的な対象は以下とした。
③『日本書紀』や『古事記』で、悪い事が書かれている天皇
本来、天皇は現世における神のような尊い存在だ。唯一無二の絶対的な存在である天皇について、あえて悪く書き残すというのは、実際にそれほど酷かったのか、よほどの理由があったのか、そう思わせたい意図があったはずだ。
具体的な対象は以下とした。
④天皇の名前に「崇」が付く名前の天皇
本来、「崇」と「祟」は、異なる漢字だ。崇は、とうとぶ、あがめるというような良い意味の漢字で、祟は、たたる、災いがおきるという悪い意味の漢字となる。全く意味は異なるが、字は極めて似ている。そして、祟りもまた祟り神という神も存在する。祟りは畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となると考えられていたようだ。様々な良い意味の漢字がある中で、あえて祟りに通じる崇の字を使っているところに、何らかの理由や意図があるはずだ。
具体的な対象は以下となる。
参考までに、崇徳天皇は、保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に罪人として配流された天皇である。そのまま汚名返上出来ずに讃岐の地で亡くなった天皇だ。無念であり、死後は怨霊になったとされる存在だ。まさに、祟神である。
また、同じく参考までに、崇光天皇は、南北朝時代の北朝の天皇で、なんとかして自らの息子に皇位を継がせたかったとされる。しかし、室町幕府の将軍足利義満や管領など何度にも及ぶ政治争いからの介入により、最後まで息子に皇位を継がせることが出来ずに失意のうちに崩御した。南北朝の混乱に翻弄され、無念を抱えて亡くなった人物であり、十分にたたりへ通じる存在だ。(崇徳天皇と崇光天皇は、古墳時代までの天皇では無いため、この紹介までとして、この連載ではこれ以上の検討対象にはしません。)
このように、上記の二人の共通点から考えても、残りの崇神天皇と崇峻天皇にもたたりに通じる何かがあると予感させる。(結論から言えば、どちらも実際にたたりに関するエピソードがあります。)
⑤天皇ではないが、それに匹敵する存在で、日本史上で大活躍した謎大き存在の人物
現在は天皇として数えられていないが、過去にはその存在感や活躍より天皇だったと考えられていた人物や、天皇では無いが天皇を超えるような存在感や活躍をしている人物がいる。最後にそれらの人物も歴史上の重要な人物として取り上げた。実際に大活躍したのか、あるいは大活躍したことにしたかったのか何らかの必然的な理由があるはずだ。
具体的な対象は以下とした。
あくまでも可能性の話だが、『日本書紀』は自分たちのルーツに繋がる王朝の正当性を内外に正式に伝えるため、自分たちに都合が良いように誇張したり、改ざんや創作した可能性があると思う。むしろ、このように考えるのは、現在の歴史の通説でもある。
そして、上記の①~⑤のように、どこか特別や異質を放っている存在は、政権交代した王朝の始祖に当たる覇者たる人物だったり、ヤマト政権においてそれだけ絶対的に重要な功績があったか、あるいは、圧倒的な存在にしたかった人物だという可能性が高いと思う。
つまりこれらの天皇とその前後の天皇とを考えることで、歴史の謎を読み解くことが出来ると考えてみた。
上記の選定された結果を良く見ていただきたい。①〜⑤の条件に照らし合わせてある程度機械的にピックアップしたわけだが、まさに、古代史上のキーマンとも言える謎多き人物ばかりのような気がしている。
□選定された神や天皇や人物について
ここで各人について簡単に説明すると以下のような人物像となる。通説以外に考えられている説も取り上げている。ただし、以下の説明は、全て私がそう考えている内容というわけではない。諸説ある話をいくつか紹介している程度だ。また、詳しい考察や解説はここでは行わない。まずは、上記の切り口で取り上げた結果、一体どんな謎多き人物達が現れたのかを感じて頂きたい。
伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯いだときに産まれた神。荒ぶる神。国譲り神話で有名な出雲の大国主命の先祖にもなる。ヤマタノオロチを退治し、その尾から出てきた「草那藝之大刀・草薙剣」を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる。
日本での最初の英雄というべき存在。高天原、新羅、出雲にゆかりのある人物。
天照大御神の五世孫であり、筑紫の日向から大和国への東征で大和の豪族の長髄彦等を撃ち破り、畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)に都して、日本を建国したとされる人物。日本の初代天皇。『宋史日本国伝』では、初めの主は、天御中主(あめのみなかぬし)で、神武天皇の父の彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)までが、凡そ二十三世で、代々筑紫日向宮に都した記載がある。ここから考えれば、神武天皇は、第24第の天皇となる。
架空の人物という説と、モデルとなった実在の人物がいたという説がある。実際には何人か、何世代かで行った東征を1人一代にしてまとめて書かれているという説もある。崇神天皇と同一人物という説もある。
在位中に疫病が大流行した際に、理由が大国主神/大物主神のたたりによるものと分かり、大国主神/大物主神を祀ることで疫病をおさえ国を治めた。四道将軍を各地に派遣して各地での反乱を鎮め、ヤマト政権の基盤を固めた。戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。天照大神を奈良から伊勢に遷した。
実在した可能性がある日本の初代天皇という説がある。神武天皇は崇神天皇をモデルに創作された天皇で、この二人は同一人物という説もある。何代かの偉業を崇神天皇として書かれたという説がある。実在した場合は、3世紀後半の人物とされる。神の字がつく天皇は、新しい王朝を起こした始祖に当たる人物という説がある。
ヤマトタケルの父。臣下に「武内宿禰」がいる。九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐。ヤマトタケルが東西に遠征して、ヤマト政権の支配地域の基盤を拡大。九州の風土記は、景行天皇の九州巡幸の記録や伝承だらけである。ただし、九州の中の筑紫の北部九州についてだけは戦や平定した記載は無い。『日本書紀』では息子のヤマトタケルを嫌い息子の大活躍を疎ましく思っていて、古事記ではヤマトタケルを頼もしく思い活躍を見守っていて、対局的に書かれている。
四世紀の前半から半ばに実在した天皇とされているが、実在性は不明確で諸説がある。
第12代から第16代の景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の5代の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣。孝元天皇の3世の孫。紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、蘇我氏など古代の中央有力豪族の祖ともされる。仲哀天皇が亡くなったときに神功皇后と武内宿禰が天皇の喪を秘した。神功皇后の側近としても活躍。
武内宿禰と神功皇后が、仲哀天皇を暗殺したという説や、この二人の子供が応神天皇という説もある。日本史の記録上は、長いと360歳、短いと280歳くらい生きたことになっている。人はそんなに長生きは出来ないため、実在した場合は、4世紀半ばから5世紀の半ばあたりかと思われる。何代かの人物をつなぎ合わせたのか、架空の人物なのか、どこかで半世紀ほど実在して活躍した人物なのかとなる。
第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父となる人物。熊襲征討、東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄。草薙剣を用いた。全国各地で敵を倒して征伐している。
各地へ遠征や草薙剣など、スサノヲとイメージが重なる。景行天皇とヤマトタケルは、親子では無いという説がある。各地へ征討から雄略天皇にも重なる。4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの英雄を統合した架空の人物という説もある。
日本武尊の子で神功皇后の夫。実在性は定かでない。実在した場合は、四世紀と考えられている。熊襲討伐のため神功皇后と共に筑紫の橿日宮(香椎宮)に来たとき、神懸りした神功皇后から、新羅を攻めるように託宣を受けたが、疑って信じず、熊襲を攻めたが負けた。その後、橿日宮(香椎宮)にまで戻り急死した。
神功皇后や武内宿禰に暗殺された説がある。哀れ(あわれ)という悲しいマイナスな名前がつけられているのも、かなり意味深だ。当時から皇后の神託を無視して殺された哀れな天皇と考えられていたのかもしれない。
父親が開化天皇の4世の孫。母親が新羅国の王子天之日矛(あめのひぼこ)の5世の孫娘。神功皇后は開化天皇の5世の孫娘で、仲哀天皇の后。伝説上、神話上の架空の人物という説もある。海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させて、三韓征伐を行ったとされる。このとき、仲哀天皇との子供を懐妊していたが戦中のため、お腹を石で冷やすことによって出産を遅らせ、筑紫に戻って来てから出産したとされる。『新唐書』や『宋史』の日本伝では、神功皇后は、仲哀天皇の次の王や神功天皇として記載されている。
神功皇后が、邪馬台国の女王卑弥呼のことだという説がある。神功皇后のお腹の子供は仲哀天皇ではなく、武内宿禰、あるいは熊本の首領(クマソタケル)等、他の人物だという説がある。
実在したとすれば4世紀後半から5世紀の初頭とされる。宋書の倭の五王の讃にも比定される。仁徳天皇陵・大仙山古墳で有名な仁徳天皇の父(息子の仁徳天皇は、町の家のかまどから煙が出てないのをみて、民の貧しさを知り、それから民のために3年間の間に税や使役を取りやめた美談を持つことでも有名な天皇)。応神天皇と仁徳天皇は、同じようなエピソードが多く、同一人物説もある。実在性は定かでないが八幡神として神格化されている。後の継体天皇は、この応神天皇の5世の孫とされている。
応神天皇を新たな新王朝の創始者とする説がある。神功皇后と応神天皇に神の字が付くのはそのためという考え方がある。この応神から始まる王朝は河内に宮や陵を多く築いていることから「河内王朝」、また「ワケ」の名がついた天皇が多いことから「ワケ王朝」などと呼ばれる。
5世紀末の金錯銘鉄剣銘にある「獲加多支鹵大王(ワカタケル?ダイオウ)」から、考古学上の実在が想定される最古の天皇とされる。宋書の倭の五王の武に比定される。気性の激しい暴君的な所業が多くあり、肉親を殺害し、反抗した豪族を徹底的に誅伐し、理不尽に人を処刑することも多かったため、大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)とも呼ばれた。一方で、良き天皇として有徳天皇(おむおむしくましますすめらみこと)という異名もある。
武烈天皇とイメージが重なる。武烈天皇と同じく残虐非道で大悪な振る舞いから、この二人は同一人物のことを書いているという説がある。
『日本書紀』には、極悪非道の暴君として書かれている。またその一方で、厳格で公正な裁判を行ったという記載もあり、相矛盾する記載内容が併存する。さらに、『古事記』では、全く悪い話は書かれておらず、跡継ぎがいなかったことが書かれている。実在していたという説と、架空で作られたという説がある。実在した場合は、5世紀末から6世紀初めと考えられる。
雄略天皇とイメージが重なる。次の継体天皇が天皇になった際に王朝が交代していて、継体天皇の正当性を世に訴えるため、あえて前代の武烈天皇を極悪非道にして書いたという説がある。
『日本書紀』では、応神天皇の5世孫であり越前国を治めていた人物。一方、『古事記』では、淡海国となっている。いずれにせよ、本来は皇位を継ぐ立場ではなかった地方の豪族が天皇になった。即位後も警戒心より、約20年間は大和入りすることが無かった異例の天皇。在位中に、筑紫の磐井の反乱が起きて鎮圧した。
初代天皇である神武天皇と同じく先代の5世の孫という設定に偶然ではない作意を感じる。天皇家とは血の繋がりが無い力を持った地方豪族が武力や財力を武器に実力で天皇になったという説が根強くある。
推古天皇の一代前の天皇。6世紀末に実在したと考えられている天皇。大臣の「蘇我馬子」によって推薦され即位したが、その後、蘇我馬子との間に確執があったとされ、蘇我馬子に指示された暗殺者により暗殺された。歴史上暗殺されたことがはっきりしている唯一の天皇。死亡した当日にもがりの期間もなくすぐに葬ったことと、陵地、陵戸がないことは、他に例が無く、そのような扱いをされた唯一の天皇。
当代の天皇の暗殺という一代事件にも関わらず、その後の朝廷、貴族間には全くその後の混乱が無いことから、蘇我馬子の一存だけではなく、当時の朝廷全体で望んで排除したという説もある。
6世紀末から7世紀始めに存在したとされる人物。日本史上の伝説的な聖人。推古天皇の皇太子、摂政として、蘇我馬子と共に推古天皇を支えた。冠位十二階の導入、十七条の憲法の制定、遣隋使の派遣、法隆寺の建設、仏教を厚く信仰し、数々の内政と外交を行った。
実在したという説と、作られた人物という説がある。創作された場合は、実在した人物である厩戸皇子を、聖人に仕立て上げたという説が有力視されている。蘇我馬子や蘇我蝦夷や蘇我入鹿が行った善政が全て聖徳太子が行ったことにすり替えられたという説があり、蘇我馬子や蘇我蝦夷や蘇我入鹿こそが聖徳太子だったという説がある。他には、隋書の俀王姓阿毎字多利思北孤が聖徳太子のことだという説がある。俀王姓阿毎字多利思北孤(倭王のアマタシリヒコ)や、その皇太子の利歌彌多弗利(リカミタフリ)が北部九州の倭国連合で行っていた善政を聖徳太子が畿内の大和国で行っていたことにして捏造したという説がある。聖徳太子自身が即位していて天皇・王だったという説もある。法隆寺は不遇の死に対する聖徳太子の霊の鎮魂の施設だという説がある。
個人的には、敏達天皇3年目の1月1日に産まれ、推古天皇の区切り良い三十年目の2月22日に死亡している当たりからして、如何にも作られた経歴という印象がある。
即位前の中大兄皇子の名でも有名。臣下の「中臣鎌足」と一緒に日本史上の最大の「乙巳の変」というクーデターを起こし、「大化の改新」を成し遂げた人物。宮中で我が物顔で権力をほしいままにしていた「蘇我入鹿」を暗殺し、敵対する勢力を一掃したとされる。百済滅亡後の復興をかけた朝鮮半島での「白村江の戦い」で新羅と唐の連合軍に大敗した。この敗戦後に、国土防衛の政策の一環として筑紫に「水城」や各地に烽火、防人を設置した。乙巳の変後、なかなか即位しなかったが、晩年には即位した。中臣鎌足に「藤原姓」を授けた。中臣鎌足が、藤原家の祖となる。息子が「藤原不比等」。(ただし、藤原不比等を生んだ中臣鎌足の妻は天智天皇の女御で、乙巳の変の褒美に下賜されていて、このときに既に天智天皇の子供を身ごもっていたという説もある。藤原不比等が天智天皇の落胤であり、実質的な藤原家の太祖という考え方もある。)『小倉百人一首』の第一歌は天智天皇の歌。『万葉集』にも4つの歌が残っている。日本最古の戸籍を作らせたとも言われる。
当時の蘇我家は、天皇のように振る舞ったわけではなく、当時の重要な国家の歴史書が蘇我家にしか無かったことなどから、実は当時の天皇家であり、それを滅ぼし自ら帝位についたという説がある。蘇我家は善政を行っていたが、それを暗殺して、自らが政権を握ったという説がある。
父と母を同じくする天智天皇の弟。他には母親が異なる異母兄弟であり、天武の母の身分が低かったため、先に生まれていた年上の天武が弟扱いになり、後から生まれたた正室の子で年下の天智天皇が家を継ぐ兄扱いになったという説もある。天智天皇の死後、壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。7世紀後半の人物。律令制の導入や国家仏教を推進した。『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じたとされる。ただし、完成したのは天武天皇の死後で第44代の元正天皇の時代。天武天皇は、一人の大臣も置かずに自ら政務をみた。強いカリスマ性を発揮して、天皇専制を実現した天皇。天智天皇とは異なり、親新羅政策をとったと評される。
兄の天智天皇より、弟の天武天皇の方が年上となる記録があるのと、天智天皇が自分の娘を4人も天武天皇と結婚させているため、実の兄弟ではなく、天武天皇にて王朝が交代したとする説がある。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。『日本書紀』あるいは『古事記』は、天武天皇朝、そしてその元になるヤマト政権の正当性を国内外に宣言するものだとされる。名前に「武」が付く割には、荒々しいエピソードや武功は少ない。天智天皇の方がよほど、乙巳の変、その後の反対勢力の一掃戦、白村江の戦いなど「武」の印象がある。そして、数々の内政を主導した天武天皇の方がよほど「知」のイメージがある。
□今後について
以上のように、実在があやしい人物、架空の人物と考えられる人物、王朝交代説のある人物、極悪非道な人物、非業の死を遂げた人物、似たような性格や業績の人物、同一人物なのでは無いかと思える人物など、一筋縄ではいかない謎に包まれた人物が浮かび上がってきたと思う。
1つ改めて新たに感じたのは、熊襲征伐あるいは、東西への各地の進軍した人物達が多すぎる点だ。熊襲や東西諸国も一度平定された後で、そんなに毎回毎回、凝りもせずに中央政権に対して反乱を起こすものなのだろうか。
もう1つは、やはり誰が実在し、誰が架空なのか、そしてどこかで王朝交代しているのか、あるいはしていないのか、やはりその考察と判断が難しいし重要になるということだ。
今回取り上げた16人の人物については、また今後少しづつ深堀りして考察して行きたいと思う。
■次回は、蘇我一族の滅亡の謎について
最後までお読み頂きありがとうございました。😊
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