幸福の味

「わからないんですよ」
ぼそり、と獄卒の一人が呟いた。目は虚ろで、心ここにあらずな様子だ。右手の小指が欠損しているが、痛みを感じている様子はない。業火が燃え盛り、今にも肺が焼けそうになる。閻魔は杓子で頭をポリポリと掻きながら難しい顔をしていた。
 
事件の発端は人間の魂に対する幸福度調査会でのことだった。
「今回は二人の人間が用意されている」
「この前の人間は本当に美味かったよな!」
佐々木は舌なめずりをしながら前回の調査会のことを喋りだした。一部の獄卒たちの仕事として、人間の幸福度を調査するという仕事が課せられていた。
「旨味と酸味がいい具合にマッチしていたよな、思わず舌鼓を打っちまったぜ」
三木は佐々木の発言を受け、その人間がいかにくたびれていた死体だったかを説明し始めた。
「私語はそこまで。今回の調査会に関すること以外の発言は控えてもらおうか」
二本木は二つの黒塗りの棺桶を開け、佐々木と三木の前に並べる。一人はやせ型で顔はしわがあちこちに寄っている。みたところ年齢はそれほど取っていないようだった。もう一人は標準的な体系をしていた。目立った外傷や特徴は見当たらなかった。
「こいつらがここに送られてくるってことはなにか訳があるんだろ?」
「ああ、下の役人だけじゃ判断できなかったらしいからな」
ふうん、と佐々木はそっけなく返事をした。二本木は二人に対象者の経歴が記されたカルテを手渡す。
「やせ型の方は何か新興宗教ってのハマっていたらしいな。稼ぎも時間も全部そこに注ぎ込んでいたらしい。そりゃ悲惨な人生だな、これは美味そうだ」
佐々木は口の中に唾をためていた。
「じゃあこっちのでくの坊はなんだ? なにも特筆することがないっていうか、何も書いてないに等しいじゃねえか。なんかつまらない味がしそうだぜ」
「その通り。問題はどちらかというとこっちの男だ」
「じゃあ早速食べてみようぜ」
三人はそれぞれに支給されたナイフとフォークを巧みに使い、標準的な男の肉体をそぎ落とす。死んでから時間が経過しているため、血は流れない。三人は自らの口へ冷たく固い肉を放り込んだ。
「む、予想より美味いぞ」
最初に感想を述べたのは佐々木だった。
「たしかにな。つまらない味と予想していたが、期待をいい意味で裏切られた気分だ」
二人の意見を聞き、二本木はカルテに書き込みを入れる。
「では次だ。こっちのやせ型の方の味も確認しておこう」
先ほどとは異なり、余分な肉がないせいかナイフが入りにくい。佐々木は我先にと、生ハムのように薄くそぎ落とされた肉片を口に入れた。
「やっぱり、この苦みと……ん?」
佐々木の顔が一転して青ざめる。
「おえっ、苦みしか感じねえぞ! どうなってんだよ!」
「おいおい、どう考えてもこんな人生のやつ美味いに決まって……」
佐々木に続いて三木もその男の肉片を口に入れる。反応は佐々木と大差なかった。
「どうしたお前ら、舌でもおかしくなったか?」
二本木もまた、この男の人生は悲惨なものであると確信していた。新興宗教に明け暮れ、家族や恋人からも見放され、碌な生きざまではなかったはずなのだ。
「むぐっ……」
しかし結果は同じだった。泥のような匂いと苦みが襲う。
「たしかにこれは不味いな。ということは、この男は幸せだったということになる」
「そんなわけねえじゃんか、コイツのカルテの経歴欄みたって、最初に食った男より幸せなんて考えられねえ!」
「人間というものの幸せは分からんな、こんな風な人間でもこの味だというのだから」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ佐々木の横でううむ、と二本木は首を傾げた。見落としている部分がないか、カルテにもう一度目を通してみる。
「ん? もう一枚あるようだな」
カルテの二ページ目は身を隠すかのように、一枚目のカルテにへばりついていた。
「ブラック企業に就職、結婚していた妻は交通事故でなくなる、人生に絶望し宗教にのめり込む……」
「ますますなんで不味いのか分からなくなってきたぜ」
「まさかとは思うが、この宗教ってのがコイツを幸せにした元凶なのかもしれないな」
「おい、どういうことだよ」
「こいつが地の底に落ちるまで絶望したとして、本当にその不幸のまま死んでいたとしたらどうなる?」
「そしたらさっきの不味さは辻褄があわないぜ」
「だろう? とすればだ。考えられる原因として宗教しか残されていない。コイツはその宗教で生きる希望や、活力、理由なんかを再び探し当てたということになる。」
「人間ってそういうもんなのかね。俺にはてんでわからないぜ」
「おうおう、小難しい話はもう終わったのかよ、そんなことより最初の人間で口直ししようぜ」
佐々木と三木はそれほど気にしていないようだった。しかし、二本木にはすごくこのことが引っ掛かっていた。人間にとっての幸せとはなんだろうか。結婚や就職、友人や家族との交流。金持ちになることや美人の嫁をもらうことが幸せだと思っていた。ましてや、新興宗教なんぞにどっぷりとハマって、そこに人生の活路を見出すやつなど、幸せなはずがないのだ。二本木は獄卒の中でも上の方の階級であった。地獄にゃ試験も学校もないなんて誰かが言っていたかもしれないが、獄卒になるための試験というものがある。人間界で言うところの公務員試験のようなものだと考えていいだろう。二本木はそれらを好成績でパスし、佐々木と三木の上官のような立ち位置で仕事をしていた。
試験の中に幸福の基準や必要となる要素なんてものは出題されなかった。来る日も来る日も二本木はそのことで頭がうめつくされていた。
「おい! この人間めっちゃくちゃ美味いぞ!」
「こりゃこの前のよりも上等かもしれないな」
別日の調査会の時も、二本木はそのことばかりを考えていた。
「なあ! うまいだろ、二本木」
「ん? あぁ、そうだな」
二本木は人の幸せを識別する舌を失ってしまった。何が幸せで何が不幸せなのか分からなくなってしまった。味がしないのだ。そもそも幸せなんてそれぞれの主観によるものではないのか。誰が幸せで誰が不幸せかどうかなんて自分が幸せになる上に不必要なものなのではないか。
あれから何人の人間の肉片を口にしたのだろう。ただ固く、無味無臭の肉片を咀嚼する。二本木はもう他人の幸せなどどうでもよくなっていた。幸福調査会の意義が分からなくなっていた。
「自分は幸せだったのだろうか」
ふと、そんな考えが頭をよぎる。この獄卒という役職に配属されて数年たつが、生きていた頃の記憶は業務の妨げになるとして削除されている。いま自分の肉体を食べたとしたらどんな味がするのだろうか。美味いのか不味いのか。
 がぶり、と自分の小指をかみちぎる。いつものように冷たい無味無臭が口の中に広がるだけだった。当たり前だ。私はもう幸せの判別が出来なくなってしまっている。ごうごうと地獄の炎が燃え盛っている。二本木は乾いた笑いを残すだけだった。

 閻魔は難しい顔をしたまま、二本木に冷たく語り始めた。
「幸せというものを調べることによって、亡者たちの行先を決める基準になるのではないかと思っていたのだが、審査する側がこうなってしまっては意味があるまい」
「申し訳ございません」
二本木は依然、それこそ地獄の底のような眼をしていた。
「幸せを感じられなくなった、か。これも最初から決まっていたのかもしれんな」
「どういうことですか」
「お前はもう覚えていないだろうが、お前がこの地に降りてきたとき、私はお前の身体を一部、食べたのだ」
「それで、どうだったのです」
二本木の眼に少し光が戻る。
「あの時のような味は後にも先にもお前の肉体を食べたときだけだった」
「そんなことはどうでもいいんだ! 味はどうだったんだ!」
過去の自分の幸福が知れるかもしれないと、二本木は眼を血走らせ叫ぶ。
「お前の肉体は味がしなかったんだ」

その日は地獄から狂った笑い声が響いていたという。

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