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【小説】レイピアペンダント 35 (完)
気が付くと、その局面は現れていた。
朝から、異様に落ち着いていた。それは心の平穏というよりも、状況に対する安心感がもたらしたものかもしれない。最近は、女流が男性棋士に勝つこともそれほど珍しいことではなくなった。僕自身、これが三局目。強い相手には負けるし、弱い相手にはチャンスがある。そして今日は、チャンスだった。これまでの相手と違い、それほど勢いのない中堅の先生。過去に女流に負けた経験もあり、何
【小説】レイピアペンダント 34
今までそれは、記号のようなものだと思っていた。「木田桜」は棋士を続けるための名前で、そこに特別な意味があるとは思わなかった。
しかし、仕事でサインをたくさん書いているうちに、違和感を覚え始めた。自分の本名ではない、その名前。この名前を選んだときは、意地を張っていた。けれども先日父の姿を見て、後悔した。僕は父に対しての想いはほとんど持っていない。母に対する怒りや恨みが、木田と名乗り続けることを選
【小説】レイピアペンダント 33
外野三段が完膚なきまでに負ける姿を確認して、少し嬉しくなった。意地が悪いのかもしれない。しかし、峰塚三冠には勝ってほしいのだ。たまたま衰えてきたときに僕がタイトルを獲ったと思われるのは、嫌だ。
ブラウザのタブを閉じて、しばらくボーっとした。このままずっと、こんな感じなのか、などと考える。全てが中途半端で、心地よかったり、苦しかったり。
タイトルを獲って、僕は次の目標を見つけなければならないの
【小説】レイピアペンダント 32
「これはいかん……」
普段ふざけてばかりの先生が、モニターを見て呟いた。僕らも言葉を失った。こんなことが……
挑戦者リーグ戦最終戦。この対局に勝てば、川崎は紅組一位で挑戦者決定戦に進出という大事な一局だった。
序盤から積極的な動きを見せた川崎は、見事な指し回しで優位を拡大していった。あとは仕上げるだけ、誰もがそう思いあまり検討していなかった。
しかし、突然局面は乱れ出した。飛車取りを放置し
【小説】レイピアペンダント 31
単純なことをしてみようと思った。
朝六時に起きて、コーヒーを飲んだ。そして体操をして、少し休む。詰め将棋を十問解いたらトーストを焼き、朝食。十時からは自転車で一時間ほど外出。買い物をしたり、公園に行ったり。
帰ってきて、ネット対局を二局指す。負けても二局で終える。
昼食の後は読書。今は樹からもらった小説を読んでいる。樹は絵だけでなく芸術全般に興味があるようで、持っている本の数も桁外れだ。も
【小説】レイピアペンダント 30
驚くほど負けなかった。
そんなに頻繁に対局があるわけでもないので、自分でも気付いていなかった。しかし、僕は勝ち続けていた。今日勝てば、二回目のタイトル挑戦。もしタイトルを取れば、二冠と二冠、本当の意味で女流のトップになれる。
対局の朝だというのに、全く緊張しなかった。自信があるというわけではないが、勝負の結果については全く興味がなかった。多分、僕はこの先何度かこういう大事な対局を迎える。これ
【小説】レイピアペンダント 29
意地で、盤上には並べなかった。メールの履歴だけが、勝負の舞台だと思った。
中盤を過ぎ、局面は複雑さを極めている。相手は一直線の勝ちを目指してくるだろう。だからと言って受けだけの手を指してはいけない。より複雑に、予測のできない局面に引きずり込む。うんざりするような、そんな状況に。僕は、それが好きなのだ。
一筋の光が頬を打ち、はっとしてカーテンを開けた。朝になっている……。どうやら僕は一晩かけて
【小説】レイピアペンダント 28
東京湾は、まっすぐで狭い。
沖縄の海を見てきたからだろうか。同じ海だというのに、全く違うものに感じる。
それでも、嫌いではなかった。
山の中で長い間過ごしたので、海というだけで最初ははしゃいでいた。押し寄せては引いて、それを繰り返す波。流れ去り下っていく川とは全く違う水の様相に、僕はひどく感動したものだ。
防波堤に何度もぶつかり、それでも決して動きをやめない。意味や目的などではなく、意地
【小説】レイピアペンダント 27
驚くほど、気持ちは落ち着いていた。
純白のドレスに身を包んだ要さんは、いつもより魅力がないように見えた。花嫁という枠に収められたら、個性は輝かないのかもしれない。
そして。要さんが時折見せる、泳ぐような目つき。僕は、その理由を知っている。そして、その原因も察しが付いてしまった。祝福する人々の中で、一人だけ明らかに異なる顔をしている男がいた。緩んだ口元と射るような目つきで、新郎には目もくれず新
【小説】レイピアペンダント 26
那覇に戻ってきた。
いろんな人に会い、語り、突然予定にないところに出かけ、泳いだり、走り回ったり。独り旅のだいご味を味わった。
それでも、僕は結局、同じところをぐるぐると回っていた。布団の中で瞼を閉じると、将棋のことを思い出した。
弱いけど、好きなんだ。どうしようもない。
国際通りをぶらぶらする。ごった煮になってはいるけれど、実は一番沖縄で薄味。お土産は他のところで買ったし、人込みは相変
【小説】レイピアペンダント 25
癖になりそうだった。
日差しが照りつけても、全然不快ではない。秋の沖縄は、何もかもがちょうどいい感じだった。
また、来てしまった。
今度は、仕事のスケジュールをきっちりと確認して、一か月前にチケットを取った。宿も、美鶴に聞いた、旅人と会話しやすい安宿を取った。
空港に着き、まずはバスで北谷に向かった。那覇を抜け、海沿いの道を走る。
バスを降りると、左手にはショッピングセンターと大きな観
【小説】レイピアペンダント 24
高いけれどたいしたことのないランチを食べて、何も買う気もないのに百貨店をうろうろした。山手線に乗り、初めての駅で降り、ぶらぶらして、結局帰宅した。
気持ちが軸を失っていた。現実は、あっさりと僕に宣告をした。弱いだけでなく、質が違う。今から努力して、どこまで追いつけるというのだろう。川崎は、ずっとずっと先にいる。
無理だ。
ワインの栓を抜き、コップに注いだ。味わうこともなく、喉に流し込む。
【小説】レイピアペンダント 23
「木田」
その日の朝、会館の玄関で。
「川崎」
「おはよう」
振り返ると、スーツ姿の青年。
「いよいよだな」
「別にたいしたこと、ないよ」
こんなに早くから、こんな格好。川崎も対局なのだ。知らなかった。
「でも、初めてだろ」
「うん。まあ、これからどんどん増える予定」
階段を上がる。いつもと変わりはない、と思う。特に気合を入れたりはしなかった。
それでも、胸が痛い。血液が、速すぎる。
【小説】レイピアペンダント 22
「え、引っ越すの?」
相変わらず家出をしている樹は、我が家のようにソファでくつろいでいる。
「うん」
「ここ、いいのに」
「仕事場が遠いから」
「それ、ここを選んだ理由じゃん」
紅茶を入れながら、その時のことを思い出す。両親とはほとんど会話もできなくなっていて、家を探すときは全部樹についてきてもらった。心細かったのもあるし、その方が不動産屋が安心するということもあった。女流棋士という仕事はなか