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【小説】レイピアペンダント 35 (完)

 気が付くと、その局面は現れていた。
 朝から、異様に落ち着いていた。それは心の平穏というよりも、状況に対する安心感がもたらしたものかもしれない。最近は、女流が男性棋士に勝つこともそれほど珍しいことではなくなった。僕自身、これが三局目。強い相手には負けるし、弱い相手にはチャンスがある。そして今日は、チャンスだった。これまでの相手と違い、それほど勢いのない中堅の先生。過去に女流に負けた経験もあり、何がなんでも、という気合は感じられない。
 実力以上のものは出せない。ただ、僕の実力は上がっている。そして、この形は川崎と研究した。どのような変化になっても、自信がある。
 研究合戦を嫌う先輩たちがいるのも知っている。しかし今なら言える。それは、最低限の努力なのだ。僕のような女流棋士でも到達できるところに、来ようとしない人たちが悪いのだ。
 冷たい時間が過ぎていく。どれだけ考えても、自分が悪いということに気が付いたのだろう。ここまでで考えるべきだったのだ。だが、ここまでにじっくり考えられるベテランは、一回戦で女流と当たったりはしない。
 固まっていた腕が、ゆっくりと盤上に伸びた。銀をかわす手。少しひねった受け方だったが、それも研究済みだ。僕が思いつき、川崎が深く検討してくれた。二分、待った。研究だけに頼ってはいけない。いつ研究から外れても、そのことが悟られないようにしなければならない。思いついた手を考慮したふりをして、僕は次の手を指した。
 そこからは、お互いに長考はなかった。もう、考えて挽回できる局面ではなくなったのだ。「娘っ子が終盤で慌てる」のを待つことにしたのだろう。だが、僕はそこを乗り越えられる、と思った。
 時間もたっぷりとあったし、何より自信があった。想定していた局面からは、終盤のパターンも予測できた。
 午後五時十三分。「負けました」の声。
 驚くほど、いつもの対局と変わり映えのない感触だった。相手よりも強いから、勝てた。男性プロに初めて勝ったという感慨は、全く湧いてこなかった。ただ、これで次はもっと強い人と対局できるという喜びは感じていた。
 感想戦を終え控室に行くと、いくつかの祝福の言葉をもらった。どこかむずがゆかった。
 終わってみれば、ただ一つ、予選一回戦が終わったにすぎない。僕にとっては意義のある初勝利だが、みんなにとってはそれほど意味のない対局だ。
 メールを打った。電話をかけようかとも思ったが、そろそろ前夜祭の時間だ。

「勝った」

 返事を待つようなことでもない。できる限り簡潔なものを送った。
 川崎は今、二度目のタイトル戦を迎えている。これだけの短い期間でタイトルに絡めば、その強さは本物、一流の仲間入りだ。けれども、タイトルを獲らなければ、一番ではない。川崎は、一番を狙える逸材だ。
 まだまだ遠い。それでも、届かない位置にいるとは思わなかった。川崎のことを知るにつけて、彼も大した人間じゃないな、と思うようになった。普通の人間が努力してあそこまで行けるのなら、希望もあるというものだ。
 とにかく、正会員であるプロに勝つという一つ目の関門は突破した。奨励会にも入れなかった僕が、だ。そう思うと痛快な気分になってきた。
 
「だろうね」

 僕よりも、一文字だけ長い文章。そっけないが、わざわざ返信してくれたのは嬉しい。
 頑張ってとか、勝てよとか、送ろうと思ったけどやめた。そんなことは、昨日のうちに言ってあるからだ。
 まだまだ続く対局。十秒将棋をする奨励会員。観戦記用のメモを取る記者。将棋界は、色々なものを原動力に動いている。僕も、その中にいる。今はただ、それを頼みにして、そのことを受け入れてやっていくしかない。
 お腹がすいた。今夜は何となく検討陣に加わりたかったし、どこかに食事に行こうと思い会館を出た。少し歩いたところで、「ああ」と声をかけられた。向こうから、スーツ姿の中沢九段がやってくる。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
 それは、今まで見たことのないような笑顔だった。心から喜んでくれているのが分かって、照れた。
「いつか、編入試験を受けるといい。その実力が、あると思う」
 僕の言葉を待たずに、中沢九段は歩き出した。僕は振り向き、その背中を眺めた。多少猫背ではあったが、とても大きかった。
 男性プロ相手に一般棋戦で規定の成績を収めれば、アマも女流もプロ編入試験を受けることができる。まだ女流が挑んだことはない。そして、若手で最も正会員に近いのは自分だという自覚はある。
 それでも。今は、急いでそこに到達したいとは思わなかった。悔しいが僕は、幾分か女性なのだ。その事実だけは、受け入れなければならないと思うようになった。僕が活躍する姿を見て、将棋を頑張る女の子もいる。それならばもう少し、せめて女流の中で圧倒的な存在になるまでは、このままで頑張っていきたい。
 どこから聞きつけたのか、何件かのおめでとうメールが届いた。僕は足を止めて、全てを読んで、そして、泣いた。今僕は、世界とつながっている。
 思い直して、川崎宛にメールを送った。

「お前も絶対勝てよ!」

 僕らはまだ、戦い始めたばかりだ。頂は、もっともっと先にある。
 どこに食べに行こうか。体が行く先に、心を任せた。


【あとがき】

 読んでくださった皆様、ありがとうございます。実はこの作品、私が初めて書いた長編将棋小説です。
 今から八年ほど前、ファンタジー小説ばかり書いていた私は、突如「違うものを書こう」と思いました。どこかで行き詰まりを感じていたんですね。そして、その時興味があったのは、「マイノリティ内マイノリティの苦悩」というテーマでした。
 私は将棋部にいたのですが、そこはマイノリティの世界でもありました。そういうマイノリティの中では、マイノリティらしく振舞うことが求められます。それは仲間意識でもありますし、「せめて世間に認められているあり方であれば」という空気感の影響でもあります。そんな中で、その空気になじめない、そもそもなじもうとしない人は「マイノリティ内マイノリティ」となっていきます。「マイノリティとして認めてほしい」人々が、自分たちの中のマイノリティには冷たく当たる、という現象が生じるのです。
 将棋以外についても、同様の問題を感じることがありました。テレビでニューハーフの芸能人が、ふとした瞬間に見せる力強さや声の太さに対して「おっさんやないか」と突っ込まれるシーン、皆さんも見たことがないでしょうか。私はそれを見る度に、もやもやとしていました。彼女たちはその「おっさん」に見られないために、ものすごい努力をしていることが伝わってきます。それなのに、テレビに求められるのは「結局おっさんである」という事なのです。了承したうえで出演しているとはいえ、心中を想像とどうしてもやるせなくなったのです。
 彼女たちは、「らしさ」を強要されているのではないか。そんなことを考えるようになりました。性の在り方は多様です。自分でもはっきりとは分かっていない場合もあります。それでもマイノリティとして理解してもらうために、「わかりやすいマイノリティ」を演じなければならないのではないか、と思ったのです。
 将棋好きというマイノリティ。その中の女性というマイノリティ。体の性と心の性の不一致に悩む人たちというマイノリティ。様々なマイノリティについて考えている中で出てきたのが、この物語だったのです。「性同一性障害の女流棋士」という設定は、すんなりと出てきたのを覚えています。
 この作品がどのように受け止められるか、今でも怖いところがあります。最近では将棋が話題になることも増えましたし、LGBTという言葉も浸透し、世間の理解は深まったことと思います。それでもまだ、マイノリティとして、そしてマイノリティ内のマイノリティとして悩んでいる人はたくさんいると思います。この作品以降、どの作品でも私はそのことを意識してきました。
 今回noteに掲載するにあたって、いろいろと再確認することもできました。次の作品に生かしていきたいと思います。
  

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