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【小説】レイピアペンダント 24

 高いけれどたいしたことのないランチを食べて、何も買う気もないのに百貨店をうろうろした。山手線に乗り、初めての駅で降り、ぶらぶらして、結局帰宅した。
 気持ちが軸を失っていた。現実は、あっさりと僕に宣告をした。弱いだけでなく、質が違う。今から努力して、どこまで追いつけるというのだろう。川崎は、ずっとずっと先にいる。
 無理だ。
 ワインの栓を抜き、コップに注いだ。味わうこともなく、喉に流し込む。
 酔いが苦しみを麻痺させると同時に、僕の中の僕が、鮮明にこちらを見つめているのが分かった。本当は、こんな日は来ない方がよかったのだ。女流の中でも一番になれなくて、苦しくて苦しくて、そっちの方がよかったのだ。今日の苦しみは、一刀両断された苦しみだ。心の隙間は埋められるが、完全に分離してしまったものはなかなかくっつかない。
 盤の上に、座布団を置いた。今は、見たくない。
 いつかの記憶が、脳裏をかすめた。
 電話を手にした。
 ダイヤルする。呼び出し音が三回、四回、五回……
「あ、どうしたの?」
 不安定な声。寝起きなのだろうか。
「いまどこ」
「え、家だけど」
「来て」
「え」
「ここに来て」
「ここってどこ」
「私の家」
「それ、どこ」
「メールで地図送るから。三十分で」
「いや、ちょっと待てよ、おい」
 電話を切った。喉がからからになり、ワインを飲み込んだ。
 地図とマンションの名前、部屋番号を記載してメールを送る。そして僕は、ベッドに飛び込んだ。とめどなく流れてくる涙を、シーツでぬぐった。
 女だ。今僕は、女だ。
 何故こんなことをしてしまったのか。
 自分の中の色々なものが、僕の中から飛び出そうとしているようだった。
 わかっていた。届かないものは、届かない。それでも、目指していたかった。近づいていたんだ。けれども、遠すぎた。タイトルを獲ったぐらいで、何かが変わったと思い込んでいたのか。あの日から、一度だって距離が縮まったことはなかった……
 目をあけられなかった。自分のもの、自分の姿、何も見たくなかった。
 四十分ほどして、ドアホンが鳴った。起き上がり、頬を叩いてから玄関に向かう。のぞき穴の向こうには、不安げな顔の川崎がいた。
「ごめん」
 口から出てきたのは、そんな言葉だった。
「どうしたの。入っていい?」
「うん」
 しわくちゃのシャツにジーパン。髪の毛はべったりとしていて、多分急いで家を出てきてくれたのだろう。僕は、初めての来客を招き入れた。
「酔ってるの」
「うん」
「今日、対局あっただろ」
「うん」
「それで飲んでたの」
「……それだけじゃない、と思う」
 新しいコップにお茶を入れようとしたら、川崎はそれを手で制した。そして、ワインボトルを手に取る。
「こういうのは、酌み交わしながら語るもんでしょ」
「じゃあ、注がせて」
「おう」
 冷蔵庫から、チーズを取りだした。僕は、何も食べずに飲んでいたのだ。
「なんか作ろうか」
「え」
「木田ってさ、料理しないだろ。台所見てわかった」
「材料ないよ」
「なんかあるだろ」
 川崎は台所で勝手に料理を始めた。たいしたものはなかったけど、卵とポテトチップス、鰹節で一品作ってしまった。盛り付けにもこだわっているようで、見た目がさっぱりしている。
「昔よく作ったんだよ」
「これを?」
「みんなうちで遊んで、お菓子を置いてくんだよね。だから次の日、こんな風にしてさ。ネギとか入れてもいいよ」
 食べてみると、とてもやんわりとした味がした。しけりかけたポテトチップスなのに、ちょっとおしゃれな食べ物みたいだ。
「よく料理するの」
「まあね。それが東京出てくるときの約束だったから。将棋で失敗しても、ちゃんと一人で生きていけるように、ってことだったみたい」
「そうなんだ」
 川崎の意外な一面を知った。まあ、ほとんど私生活のことなんて知らなかったのだけれど。
「で、どんなんだった」
「え」
 川崎は、盤から座布団を取り上げた。そして、駒を整列し始める。
「ちょっ……」
「将棋のことは、将棋で解決。それがプロっしょ」
「待って」
「木田?」
 僕は、川崎の手を握っていた。川崎の瞳が、直線的にこちらに向いている。
「プロ……じゃない」
「何言ってんだ」
「私と、川崎たちは別の世界にいる。同じ理屈では語れない」
「将棋で食ってんだろ、同じプロだよ」
「わかれよ!」
 僕は川崎の手を離すと、盤の反対側に座った。歩を五枚取り上げ、絨毯に転がす。と金が五枚だった。
「川崎が先手」
「……わかった」
「絶対、手を抜かないでね」
「……待って」
 川崎は、コップを手に取り一気にワインを飲みほした。
「条件は、一緒だ」
「……うん」
 二人、無言で頭を下げた。川崎の体はフラフラと揺れていた。僕も、おかしくなっているのかもしれない。初手、7六歩。僕は、3四歩。
 涙がこらえられなかった。何故かわからなかったが、手が進むにつれてその理由が理解できた。僕が思い出しているのは、小学生の時のあの日。そう、川崎と将棋を指すのは、あの時以来だったのだ。
「木田……大丈夫か」
「わかんない。わかんない……」
 川崎が、僕の背中をさすってくれた。それでも、次の手を指した。目の前がぐるぐると回っていた。それでも、次の手を指した。
 儀式のように、淡々と指し続けた。何を指しているのかもよくわかっていないけれど、本能がちゃんとした手を選んでいるようだった。川崎も、目がうつろになっている。元々お酒に強くないのかもしれない。
「あ……」
 いつの間にか川崎の王将に、詰めろがかかっていた。何だ、勝ちじゃないか……そう思ったけれど、全く僕が読めない順で、こちらの玉が詰まされた。
「負けました……」
「なんか、詰んじゃったね……」
 悔しくもなんともなかった。知っていたことだから。川崎は僕よりうんと強いし、どんな時でも手を抜いたりしない。それでいて、誇らしげにすることも、卑屈さを見せることもない。
 涙が止まり、目の前が真っ暗になった。本当に、安心してしまった。もう、何も考えることなんて、ないんだろう。
 目が覚めると、ベッドの上だった。少し頭が痛い。体を起こし部屋の中を見回すが、誰もいない。
 テーブルの上には、水の入ったコップと、サンドウィッチがあった。手にとって見てみる。近くのコンビニで売っているものだ。
 将棋盤には、見覚えのある局面が。夏川との将棋の、投了したところだった。その横には、広告の裏に書かれた棋譜が。中盤以降、一手一手に検討の結果が書き込まれていた。
 トイレにも風呂にも、川崎はいなかった。靴もない。
 部屋に一人きり。こんなにも独りを実感したのは、初めてだった。


【解説】

・メールで地図を送る
 七年前の作品ですので、スマホもLINEも念頭にありませんでした。川崎君、大変だったでしょうね……

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