見出し画像

【小説】レイピアペンダント 28

 東京湾は、まっすぐで狭い。
 沖縄の海を見てきたからだろうか。同じ海だというのに、全く違うものに感じる。
 それでも、嫌いではなかった。
 山の中で長い間過ごしたので、海というだけで最初ははしゃいでいた。押し寄せては引いて、それを繰り返す波。流れ去り下っていく川とは全く違う水の様相に、僕はひどく感動したものだ。
 防波堤に何度もぶつかり、それでも決して動きをやめない。意味や目的などではなく、意地を張っているかのようだ。
 結婚式の後はむなしい。自分は絶対できないだろうし、むなしい。
 ポケットの中で、携帯が震えた。メールが来ていた。
 川崎からだった。
 タイトルはなかったし、本文も短かった。

「今度はそっちが先手ね。じゃ、一手目どうぞ」
 
 唐突過ぎて、吹き出してしまった。僕にとって大事だと思っていた彼との再戦が、一回目は泥酔状態、二回目がメールだなんて。
 僕は、深呼吸してから、その場に正座した。携帯電話を地面に置き、「お願いします」と一礼してから、ボタンを押す。

「初手私 7六歩」

 膝がゴリゴリとして痛かったので、正座はすぐに崩した。風が耳の後ろを通り抜け、髪を崩していった。
 五分後、返信が来た。

「二手目俺 3四歩」

 気が付くと僕は、声を出して笑っていた。こんなこと、もっと早くできたじゃないか。川崎は、何故今、こんなことを始めたのだろう。
 それでも、僕は楽しいから、川崎は正しかったのだろう。
何の指定もないから、次の手はすぐに返さないでおこうと思った。このゲームみたいな対局を、必死に考え抜いて戦おう、僕はそう誓ったのである。


 それは、突然過ぎた。
 夏になると、いくつも将棋祭りが開催される。若手女流棋士はどこの会場でも重宝される。特に今年はタイトルを獲ったということもあり、僕の出番も多かった。
 将棋祭りの楽しみの一つは、普段実現することのない対局が席上対局で実現するというところにもある。たくさんのお客さんの前で指し、解説の声も聞こえるということで、自然と対局も魅せることを意識した内容になる。
 僕も関西の先生との対局で、勝敗は気にせず楽しく指しているところだった。お客さんの様子も見ながら、盛り上がりそうな手を選ぶのも大事だ、と先輩には言われた。だから、時折会場を見回していた。子供も結構いるが、やはりおじさんが多い。
 いつもの光景だ。そう思っていた。しかし、ある一人のおじさんの姿を見て、そこから視線を動かせなくなってしまった。青いジャンパーに身を包んだ、白髪の目立つ、五十過ぎの男性。僕の知っている姿からはかなり歳を取っていたが、間違いなくそれは父の姿だった。
 十年ぶりの再会が、こんな形になるなんて。僕は動揺を隠し、何とか対局の方に集中しようとした。対局はできているが、どこかふわふわしてしまった。
 対局は、僕の負けだった。けれども、そんなことはどうでもよくなっていた。再び会場を見回した時には、父の姿は見つからなかった。
 将棋に全く興味のない父がここに来た理由なんて、たった一つしか思い浮かばない。おそらく、僕がプロになったことすら最近まで知らなかったのだろう。そしてニュースか何かで見て、娘の現状を知ったに違いない。そして僕がまだ「木田」を名乗っていることも。
 追いかけて行くほどの未練は何もない。泣くほどの感動もない。それでも僕の心は、平静ではいられなかった。
 僕の半分は、あの人でできている。
 見なければ、どうだっていい存在のままだったのだ。それが、僕を気にかけているなんて思ったら……
 人生には波がありすぎる。ああ、もう……


【解説】
・将棋祭り
 多くのプロ棋士が参加して、デパートなどで行われます。席上対局だけでなくトークイベントや指導対局、アマチュアの大会なども開催されます。将棋のグッズなども売られていますし、長い時間楽しめます。

サポートいただければ、詩集を出して皆様にお届けしたいです。文字が小さくてむっちゃボリュームのある詩集を作りたいです。