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落語ラン vol.35 「今戸の狐ラン」

4月になり、新年度ですね。なかなか新型コロナとの戦いのトンネルを抜けられませんが、今戸神社周辺を中心に神社仏閣巡りをしました。
「今戸の狐」は実は寄席ではナマを聞いたことがありません。また、今では馴染みが薄い表現や習俗もあるため、やや説明を要する噺かも知れませんね。

あらすじ

江戸の名人三笑亭可楽は【下谷神社】で初めて寄席を開いた人。その門下の若い二つ目良助。当然寄席の上りだけでは食えずに、生活は困窮している。また、師匠も内職を禁じており、見栄もあって更に生活は苦しくなるばかり。良助の住まいは【橋場】だが、向かいの背負い小間物屋善吉の女房おサイは【千住】の女郎上がり。ところが、とても働き者で近所の評判も良く、「千住(コツ)の妻(サイ)」と呼ばれていた。このコツのサイ、今戸焼の狐の彩色の内職で糊口をしのいでいた。親切なので、人に聞かれると作り方を教えてくれる。器用な良助もすぐ習得し、雨戸を閉めてこっそりと狐を作り始めた。朝師匠の家に行き、用事を済ませて帰宅後、寄席に出る夕方までにせっせと狐づくりの内職の毎日。当時、可楽は飛ぶ鳥を落とす勢いで、寄席がはねたあとの売上は弟子が師匠宅まで持って行き、各出演者に割り前を分けるのが仕事だったが、売れっ子でいくつも寄席を掛け持ちしているので、時間が掛かる。(出演者の)誰それさん、いくらという声に合わせて前座がチャリンチャリンと分けるのだが、その音が夜な夜な響く。ある夜、雨宿りのやくざ者がこの銭の音を聞きつける。そして、やくざ者はこの音を3つ賽子のチンチロリン(狐)の賭場が開帳されているとにらんで、翌朝可楽の家に乗り込む。素人が賭場を開帳するのは不届きだが、見逃してやるので、口止め料を出せというのだ。可楽は自分は大の博打嫌いで、そんなはずがない、何かの間違いだろうとはね付け奥に引っ込んでしまう。怒ったやくざは、狐が出来ているのはお見通しだと内弟子にすごむ。勘違いした内弟子は、それなら橋場でこしらえていると良助の住まいを教えてしまったが…。

ランニングコース

下谷神社→山谷堀→今戸神社→白髭橋→浄閑寺

下谷神社

下谷神社は、稲荷町からも上野からも歩いていける距離なので、是非行ってみたいところ。今戸の狐に出てくる三笑亭可楽が初めて境内で寄席を開催したため、「寄席発祥の地」の石碑があります。関東大震災で社殿が消失したようですが、東京大空襲の難は逃れたようです。

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橋場

浅草から川沿いに北上すると、待乳山聖天があり、更に北上すると今戸神社があります。今戸神社は、招き猫発祥の地という記述がありますが、あまり根拠が無いようです。ただ、今戸焼で例の形の招き猫を大量に作ったため、いつの間にかそういうことになった、という可能性が高いですね。また、沖田総司終焉の地という表示もありますが、千駄ヶ谷から新宿に向かう大京町の草むらにも同様の表示看板があります。どっちが本当なのやら?(どうも大京説の方が本当っぽい)。まぁ、いずれにしても最近ドラマにも取り上げられたこともあり、縁結びの神様として若い男女の訪問が多いようですね。

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9)今戸焼発祥の地

今戸神社手前に「今戸橋」があります。江戸時代、吉原へのアプローチとしてはもちろん徒歩や駕籠で蔵前を通ってというのもあったのでしょうが、より粋なアプローチとしては柳橋などから船に乗り、今戸橋で降りて山谷堀沿いを歩いて行くというのもあったようです。今や山谷堀は埋め立てられて、公園になってしまっています。

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今戸神社からまた川沿いに戻って北上する通りを「橋場通り」と言います。橋場というのは、古来この辺にいわゆる「橋場の渡し」があったようで、近隣は文人墨客の別荘(寮)が多かったようです。この辺は、根岸も同様の立地環境だったのでしょう。
明治になって、西郷・大久保・木戸の三傑が活躍しますが、大久保と木戸は岩倉使節団として二年に渡って渡欧。留守政府を預かった西郷は、不平士族の不満解消のためにも征韓論を唱えますが、帰国した大久保・木戸はこれに反対、内治優先を主張します。当時太政大臣の三条実美は一旦西郷の朝鮮派遣を決定したのですが、心労により対鴎荘に引きこもってしまいます。そこに明治天皇が行幸、お見舞いあそばされたとのこと。お帰りの際、伊達宗城邸で「いつみてもあかぬ景色は隅田川 難美路の花は冬も咲きつつ」とお詠みになられたそうです。

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千住

白髭橋界隈は、近時開発も進みかなり明るい雰囲気になりました。石浜神社には、在原業平の「都鳥の碑」がありました。

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