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落語ラン vol.22 「文七元結ラン」

山本周五郎に「さぶ」という名作があります。タイトルのさぶも非常に大きな役割を果たすのですが、全編を通して栄二の苦悩と成長が記述の中心。
「文七元結」もそんな噺で、左官の長兵衛さんを取り巻く人間模様です。文七はほんのチョイ役。三遊亭圓朝作ですから、江戸から明治の噺ですが、ちょうど薩摩や長州の田舎侍が幅を利かせてきた時に江戸っ子の心意気を示した噺と言います。
また、今回初めて知ったのですが、文七は桜井文七という名前で実際に江戸で流行りの元結屋を営んでいたそうですから、本当に麹町貝坂に元結屋があったのでしょうね(長野日報「八面観」2020.09.19より)。

あらすじ

【本所達磨横丁】の左官の長兵衛は腕は立つが博打好きのせいで毎日の生活は苦しい。ある日【細川様】の博打で身ぐるみ剥がれて帰ってくると、女房が泣いている。聞くと娘のお久が見当たらないという。言い合いをしていると、【吉原の大店「佐野槌」】から使いがくる。何でも佐野槌の女将のところにお久が身を寄せているというので、着る物もない長兵衛は女房の着物を羽織って佐野槌に駆けつける。果たして、そこには身売りを決意したお久の姿があった。佐野槌の女将はお久の気持ちを受け止め、次の大晦日までに長兵衛に50両の金を貸すことを約束。ただし、大晦日を1日でも過ぎたらお久を女郎としてお店に出すことも伝えた。50両を得たものの、あまりに情けない思いで改心を誓った長兵衛。帰りに【吾妻橋】に差し掛かると若い男が身投げをしようとしている。聞くと【日本橋横山町】の鼈甲問屋「近江屋」の奉公人で、【水戸様】への集金の帰りに【枕橋】でその金(50両)をすられたので、死んでお詫びをしようというところだった。「死んでお詫びを」「いや、死なせねぇ」と押し問答を続けた結果、長兵衛は50両をその若者文七に押し付けるようにして、逃げるように帰っていった…。

ランニングコース

本所達磨横丁→細川様下屋敷→枕橋→水戸様→吉原→日本橋横山町→小西→麹町貝坂

本所達磨横丁

本所達磨横丁というのは、区画整理で今や全く無くなりました。古地図で見ると、墨田区の保健センターの辺りのようですね。また、近所には初代の永世名人、木村義雄の生誕の地などがありました。また、達磨横丁というくらいですから達磨を作っている職人さんが多くいたのかも知れませんが、恐らく別の意味ですね(詳しくは書きません)。

001達磨横丁

002達磨横丁

細川様

古地図を見ると、吾妻橋を渡ってすぐのところに細川能登守の下屋敷がありました。ここで開帳される賭場に長兵衛さんは日参していたのでしょうね。

002-1細川様

吉原(佐野槌)

吉原の佐野槌というと、大店中の大店です。もとの圓朝版では、角海老としていたようですが、その後は佐野槌としている噺家さんが多いようです。

003吉原大門2

004見返り柳

吾妻橋

吾妻橋というと、落語の世界では、身投げの名所です。少し思いついただけでも、身投げ屋、唐茄子屋政談、佃祭りなどで吾妻橋が出て来ます(いずれも未遂)。

005吾妻橋

006吾妻橋

008吾妻橋

水戸様

水戸様というのは、水戸藩の下屋敷があったんですね。この間に「源森川」というのがあり、今も水門が残っています。

012枕橋

枕橋

その源森川に掛かっているのが枕橋(源森橋)です。過去に何度も渡った事がありますが、今回改めてあー、あそこか!と思いました。実に地味な橋なのですが、今は墨田川リバーウォークの渡った先が枕橋ですから、今後ブレークするかも!なお、近隣の隅田公園も東武伊勢崎線の高架下が何だかお洒落に変わっていました。

009枕橋

010枕橋

011枕橋

013枕橋

016枕橋

日本橋横山町

日本橋横山町は、富久でも触れましたが、今も問屋街として存在感を示しています。鼈甲問屋近江屋はさすがに今はないのですが、OMI internationalという東南アジア方面に国際宅急便を送るサービスの会社がありました。

020横山町

021近江屋

小西

あらすじには書いていませんが、最後日本橋横山町の鼈甲問屋近江屋の主人は、長兵衛さんの家に行くついでに小西の「切手」と角樽を持参します。切手は、今の商品券のようなものでしょうね。「小西」は今も愛宕に存在します。小西というと、伊丹の酒屋小西が有名ですが、その江戸支店だったのかも知れませんし、経緯はもう少し調べる必要があります。神田にも小西という問屋さんがありますので、江戸の頃は小西というと酒関連の一大問屋グループだったのかも知れませんね。

022愛宕小西

023愛宕神社

麹町貝坂

50両を長兵衛さんに恵んでもらった文七さんは、最終的には麹町貝坂に元結屋をオープンして、たいそう繁盛します。麹町は当時は旗本町ですが、その後商業地になったはずですので、さぞかし繁盛したことでしょう。貝坂には水沢出身の高野長英が開いた私塾の跡地もあります。もしかしたら、高野長英も文七の元結を愛用したかも?と思いましたが、蛮社の獄で有名な高野長英の教科書写真なんかを思い出すと、もしかしたら元結を必要とはしなかったような…。

027貝坂

028貝坂

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マップ

https://www.mapion.co.jp/m2/route/35.70546262349118,139.7977557964061,16/aid=e333fe/


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