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落語ラン vol.20 「富久ラン」

「落語ラン」もついに20回目を迎えました。まだためているネタもあるので、50くらいまではスムーズにいけそうです。
そもそも「落語ラン」は落語の世界を実証的に捉えるためのものでも、批判的に考えるものでもなく、ただただ楽しむためのものですので、のんびりいきたいと思います。で、「落語ラン」と言いつつ、落語の世界の皆さんは毎日のんびりと過ごしていますので、噺の中にはのべつ走っている場面が出て来る訳ではありません。せいぜい、間男の最中に旦那さんが帰ってきて思わず逃げ出したり、将棋のせいで締め出しを食ってしまい、叔父さんの家に泊めてもらうために走ったり、上野まで人力車を引っ張ってシャカリキに走ったりするくらいでしょうか(笑)。
一番「落語ラン」に向いている噺としては、今回取り上げる「富久」が頭に浮かびます。師走になると聞きたい噺で、2019年にNHKで放送された大河ドラマ「いだてん」でビートたけしさん演じる志ん生師匠が、東京五輪の開会式の日に高座にかけていたのが「富久」。これは、2020年内には是非体験しなければと思っていたのですが、いかにも落語らしい噺ですし、色々な論点がありますので、20回目に合わせて走ってみました。

あらすじ

良い幇間だが、酒の上でのしくじりが原因でいろんな旦那から出入り止めになり、【浅草の裏長屋(注1)】で貧しい暮らしを強いられている久蔵。師走のある日、知り合いから千両富の札を一分で購入し、神棚の大神宮様のお宮にしまい込んで一発逆転ホームランを期す。と、夜半に世話になっている【旦那の家(注2)】の方角で火事の報せ。急いで駆け付けた労苦に詫び入れも相まって久蔵は出入り禁止を解かれ、旦那宅で酒を飲んで寝てしまう。ところが、今度は自分の長屋方面に火の手が上がる。慌てて戻った久蔵だが、嗚呼長屋はひとたまりもなく燃えてしまった。失意のもと旦那宅に戻り居候させてもらう久蔵。ところが、富の当日、【富の神社(注3)】に向かうと、何と一番富の千両が当たって大喜び。ところが、富札は焼けた長屋の大神宮様のお宮の中に入れたまま。失意の下、当て所もなくトボトボ歩く久蔵だが…。

ランニングコース

(浅草阿部川町)→浅草三間町→日本橋横山町→(桜田)久保町→椙森神社→湯島天神

富久考察

富久は、大きなストーリーは全く一緒なのですが、演者によって出てくる場所や細かいディテールが異なる興味深い噺です。広瀬和生さんの「噺は生きている」を参考に整理すると、以下のようになります。

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浅草の裏長屋

そもそも「富久」は前出の志ん生師匠の得意ネタの一つだった訳ですが、八代目桂文楽の十八番でもあります。奇しくも昭和の名人二人が得意としていた訳ですが、微妙なディテールの違いがあります。
主人公の幇間久蔵が暮らしていた裏長屋(注1)の場所ですが、文楽型が「浅草阿部川町」、志ん生型が「浅草三間町」となっています。まず、浅草阿部川町ですが、vol3の「柳田格之進ラン」で訪れていますね。家康公の江戸入城の際に阿部川周辺の住民が孫三稲荷もろとも移り住んだということのようです。周辺には柄井川柳も住んでいたようです。一方、浅草三間町にはこれといったランドマークがありません。古地図で見ると、今の駒形どぜうとバンダイの間が町境で、駒形どぜう側が駒形町、バンダイ側が辛うじて三間町のように見えましたので、ひとまずバンダイを今回のスタートとします。
浅草三間町というと、思い出されるのは夏目漱石で、牛込(早稲田に「夏目坂」あり)で生まれ、養子になった後内藤新宿に転居した漱石はその後浅草三間町に移り住みます。まだまだ雑然とした長屋が残っていたはずで、恐らく恐ろしい環境の変化だったはずです。話を元に戻すと、多くの噺家が久蔵の長屋は浅草阿部川町か浅草三間町の型でやっているようです。

【浅草阿部川町】

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浅草開花楼

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【浅草三間町】

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旦那の家

一方、旦那の家(注2)については、芝の久保町の場合がほとんどです。久保町もvol.15の「黄金餅ラン」で通過しています。新橋の少し霞が関寄りにあり、かつては「桜田久保町」と呼んでいたようです。今は「アロンアルファ」の東亞合成の本社ビルの辺りで、ごく狭いエリアです。一方、文楽師匠は当初芝神明町でお演りになっていたところ、久保田万太郎(「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」など)から「そんなに遠かったら火事が消えてしまう」という指摘を受けて日本橋横山町に変更されたようです。
さぁ、ここで色んな事が考えられます。まず、久蔵は旦那の出入り禁止を解いてもらいたい一心で火事の手伝いに向かいます。当然走って。ところが、もちろん当時は道も舗装されておらず、アシックスやNikeはありません。また、夜火事ですから真っ暗闇です。ましてや久蔵はふわふわ暮らしている幇間です。普段身体を鍛えているはずもなく、キロ8分で走るのがやっとだったのではないでしょうか?となると、浅草三間町スタートとすると、久保町までは今回実測で7キロ弱ありましたから、片道で走って1時間弱要します。ましてや久蔵は火消しが完了した後の手伝いを終え、大酒を飲んだ後にまた自宅に戻り、その後また旦那の家に舞い戻っていますので、一晩で21キロを移動したことになります…。
一方、文楽師匠の型の日本橋横山町だと浅草橋を越えてすぐですから、片道2キロ強、20分もあれば到着出来ます。ちょうど日光街道に沿っていく形になるはずです(筋違いに旅篭町)。これだと、旦那がまた出入りを許すほど感謝したかどうかは微妙な距離感のようにも思えます。恐らく文楽師匠は幇間の久蔵の移動可能な距離としてリアリティを追求した結果、志ん生師匠は旦那が出入りを許してくれるほどの遠い距離、という独特なデフォルメで久保町に設定したような気がします。とは言え、いくら高い建物がなかった時代でも浅草三間町から火事の方向を(エリアの狭い)久保町と特定するのは至難の業のような気もしますが…。

【日本橋横山町】

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旧日光街道

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【久保町】

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古地図で見ると、久保町はこんなに狭い…。(出典:古地図withMapFan)

富の神社

江戸時代、富の興行をやっていた神社は限られていて、有名なのは湯島天神で富の神社(注3)をここに設定している噺家も結構多いです。一方、現在の堀留町にある椙森神社に設定しているケースや、深川八幡(富岡八幡宮)に設定している場合もあります。これは、どこでも良い気がしますが、驚くのはその距離感です。というのは、久蔵は前日焼け出されて富くじ(この時点ではまだ当落は不明)も何もかも失っています。それなのに、翌日神社を訪れています。久保町から椙森神社まで約5キロ、湯島天神までが8キロです。普通は、もう寝ちまえ!ってんで翌日は身動きも取れないのではないでしょうか?この久蔵さん、幇間という商売ながら恐ろしい脚力と、強靭なメンタルの持ち主だったようです(でないと、一流の幇間は務まらないのかも知れませんね)。
なお、当たりくじの番号も噺家によって異なります。富くじが出てくる噺は多いですが、当たり番号までに言及しているものはあまりありません。「御慶」は噺の筋に関わるものですから当たり番号は「鶴の千五百四十八番」と決まっていますが、富久の場合は「忘れない分かりやすい数字」という噺家それぞれの設定にしているのではないでしょうか?

【椙森神社】

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【湯島天神】

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余談

あくまで久蔵の片道移動区間のみを移動してトータルのランニング距離は20キロ強でした。ちなみに、浅草三間町/椙森神社パターンだとすると、少なくとも久蔵は2日間で最低でも(7キロ×3)【火事の往復】+5【→椙森神社】+7【→自宅】=33キロは移動していることになります…。

マップ

https://www.mapion.co.jp/m2/route/35.70721809514009,139.7948938793979,16/aid=2ace19/

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