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オチの種類と「緊張の緩和理論」
話の結末のことを「オチ」といい、落語では「サゲ」ともいったりする。(オチは「落ち」、サゲは「落げ」と書く(参照『現代落語論』立川談志著))。
落語の場合オチがあるのがほとんどだが、無い場合もある。
またオチがあっても観客が理解できず、気がついたら終わってる話もあり、それを避けるために工夫する落語家も少なく無い。
例えば、
「おなじみのお笑いでございます」
「〇〇というお話でございました」
「お後がよろしいようで」(これを言ってる落語家を見たことがないが、いたら教えて欲しい)
本記事ではオチと言ったりサゲと言ったりするが、特に区別なく使ってる。
しかしこれは筆者の感覚だが、「話のオチ」とは言うが「話のサゲ」とは言わない。「落語のオチ」も「落語のサゲ」もどちらも言う。
個人的に「オチ」という言葉の方が昔から慣れ親しんでいるので、こう言った感覚になるのだろう。
以下では、「サゲの分類」「サゲの演出」について解説する。
サゲの古典的分類
例1:
A「最近物忘れがひどくて」
B「それは大変ですね。いつからですか?」
A「なにがですか?」(オチ)
誰が最初に始めたのかは知らないが、サゲの分類で有名なのは「落語の研究」(渡辺均著)によるものである。ここではサゲを11に分類している。
また他の研究者によって、渡辺の11の分類に2つ加えて、全部で13あるというのが古典的分類である。
以下では渡辺均の11の分類を紹介する。
「地口オチ」
いわゆるダジャレオチ。(『鰍沢』『三方一両損』など)
「隣の家に囲いができた」
「へぇー」
「さすがは、大工は棟梁(細工は流流)」
「調べをごろうじろ(仕上げをごろうじろ)」
「拍子オチ」
とんとんと調子よく話が進んだ後、さっと落とすこと。(『しの字嫌い』『山号寺号』など)
「仕込みオチ」
あらかじめ枕(話の導入部)や本題でそれとなく説明しておかないと理解できないオチ。(『明烏』『真田小僧』など)
「逆さオチ」
オチとなる内容を先に話してしまう。
「死ぬなら今だ」
「考えオチ」
考えてみたら笑えるオチ。(『野ざらし』『疝気の虫』など)
よく当る占い師に、父親の寿命をみてもらった坊やが、
「明日の朝八時に死ぬ」
といわれ、親父に注進したが、親父はまるで信用しない。
朝がきて、親父はでかけようと、玄関を開けると、
そこに牛乳配達が死んでいた。
毛生え薬を使った女性。
友人「あの薬効いてきた?」
女性「うん。生えてきてないけど効いてきた」
友人「どういうこと?」
女性「彼の口髭が濃くなってきたの」
「廻りオチ」
話の結末が最初に戻るというオチ。
「見立てオチ」
意表をつくオチ。(『もう半分』『まんじゅうこわい』『首提灯』など)
「間抜けオチ」
間抜けな終わり方。(『時そば』『粗忽長屋』『夏の医者』など)
「トタンオチ」
話の最後のセリフで全てが繋がる。(『芝浜』『厩火事』など)
「よそう、また夢になるといけねえ」
「ぶつけオチ」
互いに言っていることが通じないで、別の意味でそれがオチになる。
(『らくだ』『反魂香』など)
「仕草オチ」
身振りで終わるオチ。(『死神』)
『死神』は、ろうそくの火が消えて主人公が死ぬ、というのがオチ。
どのように火が消えるか、どのように死ぬかは落語家によってオチのバリエーションが豊富である。しかし、もっとも標準的なものは、ろうそくの火が消えてしまって演者が倒れ込んで終わる。これは特に三遊亭圓生が演じていた。
桂枝雀による分類(緊張の緩和理論)
古典的なオチの分類は、『地口オチ』の場合は「内容」視点だが、『拍子オチ』は「内容」より「やり方」が視点になっており分類がめちゃくちゃであること。
本来、分類とは「1視点」から行うものであって、多視点でやるものではない。
これを指摘したのは桂枝雀だ。枝雀による分類は「観客」視点になる。
枝雀は「緊張の緩和理論」というのを提唱した。
笑いというのは緊張の緩和によって起こるのであって、観客が何を緊張と感じ、何を緩和と感じるかによって、笑いが生まれる生まれないが変化していく。
例えば、「大金持ちがバナナで滑る」と笑いが起きるが、「貧乏人がバナナで滑る」と笑いは起きない(今どき、大金持ちがバナナで滑っても笑いは起きないと思うが、一例として)。
大金持ちや貧乏人というのが「緊張」になっており、バナナで滑るのが「緩和」である。
見ている人にとって、大金持ちより貧乏人の方が「緊張」度が高いため、バナナで滑っても完全に「緩和」されず緊張が残ってしまう。
緊張度の違いは、大金持ちの場合「あの人だったら別にいいじゃないか」、貧乏人の場合「可哀想だなあ」というものである。
このような「緊張」と「緩和」がうまいこと調合されて「笑い」というのが起きるそうだ。
桂枝雀は、この「緊張の緩和理論」を使って、オチを4つに分類した。
ドンデン(合ー離、あわせーはなれ)
謎解き(離ー合、はなれーあわせ)
へん(離、はなれ)
合わせ(合、あわせ)
詳細は後で解説するとして、前提を少し解説しておこう。(以下、EXテレビで枝雀さんが上岡龍太郎さんに解説していたものを参考にして、筆者なり要約している)
笑いとは「緊張の緩和である」というのが枝雀の理論である(「緊張と緩和」とも言っていた)
![](https://assets.st-note.com/img/1671382233680-zY1I1aWrGH.png?width=1200)
上の画像を見て欲しい。
人間の生理的なもので「ホンマ領域」「離れ領域」「合わせ領域」に分かれている。
「ホンマ領域」とは通常の状態のことである。
通常の状態とは、観客が普通に思っていることである。
注意しておきたいのは、おかしな状況であっても、それが普通であればホンマ領域である。
例えば、映画「テルマエロマエ」で古代ローマ人が日本にタイムスリップしてきた状況は、最初は異常な状態である。しかし、しばらくすると観客はその異常さ(古代ローマ人が日本の温泉に使っている姿)をおかしいとは思わなくなり、これが普通になる。
どれだけ異常な状況であっても、観客が慣れればホンマ領域に戻る。
「離れ領域」は不安な状態のことである。
「不安だな」「おかしいな」「どういうことかな?」と思う状態である。
「合わせ領域」は安心な状態のことである。
「そういうことか!」「なるほど!」と思う状態である。
「離れ領域」も「合わせ領域」も、「ホンマ領域」を逸脱した状態であることに注意しておきたい。
笑いと言うのは、この逸脱した領域に飛んでいくことである。(ただ単純に逸脱すればいいわけではない!が、これは無視する。センスとかの話になってくる)
枝雀のオチの分類はホンマ領域から「合」と「離」の組み合わせでできている。
以下、枝雀によるオチの解説である。
ドンデン(合ー離)
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ドンデンという言葉よりも「合ー離」の方がわかりやすい。
合いそうになって離れるのである。
簡単に言えば、
「うまくいきそうだな?(合)」「だめだったー(離)」
というのがドンデンである。
例:愛宕山
谷底に落ちた小判を崖を下り、拾いにいく一八(いっぱち)。
谷底から崖の上に戻れるかとみんなは思っていたが、自分の服で縄を作り、なんと戻ってきた。
一八「旦さん、ただいま」
旦那「えらい男じゃ。上がってきた。で、小判はどうした?」
一八「忘れたぁ」
謎解き(離ー合)
![](https://assets.st-note.com/img/1671383175213-B81833PbRp.png?width=1200)
一番わかりやすい例かもしれない。考えオチはこれだ。
「どういうことかな?(離)」「なんだそういうことか!(合)」
という終わり方である。
例:芝浜
酒ばかり飲んでいる仕事に行かない魚河岸の熊。奥さんに言われ久しぶりに仕事にいくが、途中、芝の浜で42両という大金を拾う。
家に戻り、大喜びで飲んで食べて、熊は眠ってしまう。
再び奥さんに起こされ「仕事に行け」と言われる。42両のことを言ったが「そんなの知らない」「夢だったんだよ」と奥さんに言われてしまう。
それからこの男、酒をやめ、真面目に仕事をする。
三年経った大晦日。奥さんに夢ではなかったことを説明される。金を盗めば首が飛ぶから、届け出たそう。嘘をつかれたことに熊は怒ったが、事情を理解し、夫婦は和解する。
「ねえ、お酒飲まない?」と奥さんに言われる。そう言うならと、熊もお猪口に酒を注いでもらう。だが、飲もうとした時に……。
男「よそう」
妻「どうしたの?」(離)
男「また夢になるといけねえ」(合)
へん(離)
![](https://assets.st-note.com/img/1671383556899-ZIEcR4NgjY.png?width=1200)
これは奇妙なところで終わる。もしかしたら、オチが分かりにくかった場合、この終わり方が多いかもしれない。
終わったことに気がつかないことがあるので、ここで「〇〇というお笑いでございました」など最後に付け足されることもある。
例:粗忽長屋
自分の遺体を運んでる熊五郎。
「抱かれている俺は確かに俺だけど、抱いてる俺は誰だろうなあ?」(へん)
合わせ(合)
![](https://assets.st-note.com/img/1671383415286-y6AAKfSBXX.png?width=1200)
すぐに合って終わる。地口オチ(ダジャレオチ)に多い。
例:道灌
「お前は歌道(かどう)に暗いな」
「門(かど)が暗いから提灯借りにきた」
まとめ
上のように4つに分類したが、演者の話し方によって、ジャンルが違ったりすることがある。
また、聞き手がどう思うかによって「合」も「離」も度合いが変わってくる。
例えば「謎解き」でも、オチを知っていたら「謎」もないし「解き」もない。
これがわかるからといって「笑い」が生み出されるわけではないが、
「そこに笑いがあるか」という指標になる。
また、寄席ではいくつか落語が演じられるが、同じジャンルのオチになるのはできるだけ避けたい。「へん」な落語ばかりやっていると、飽きてくるから。「今日は謎解きの落語をまだ誰もやってないから、謎解きの話やってみよう」的な)
サゲの演出
観客が、落語が終わったことに気がつかないことがある。
そのため、演者は色々な工夫をする。落語の楽しみの一つである。
「おなじみのお笑いでございます」
「おなじみの〇〇というお笑いでございます」
「お後がよろしいようで」
これに関しては『現代落語論』で立川談志は批判していた。「本来サゲを言ったら、あとは何も言ってわいけないものなのだ」
筆者は好きだが…。
では他の落語家は何をするか?
多分一般的なのは、サゲを言いながら頭を下げるものである。
他には
林家彦六の場合、サゲを言うときに少し上を向く。そして頭を下げる。
三遊亭圓生の場合、サゲを言って、観客の笑いを聞き、師匠は少し笑って頭を下げる。
柳家小さんの場合、サゲを言って、少し間を置いて、頭を下げる。
いろんな落語家の工夫が見えるので、ぜひ注目してみて欲しい。
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