不道徳性のチキンレースとか、ワルについての差異化ゲームの危なさ


はじめに

当ブログ読者はご存知の通り、小山田さん問題が炎上したためではなく、それ以前からカウンターカルチャー的思考や、これを汲む「悪趣味/鬼畜系」へと批判的関心を向けておりました(URL)。

現状で史料の大量精査は難しいので、ひとまず私なりの初期報告、教訓をまとめます。幾つかあるのですが、今回は「不道徳性のチキンレースとか、ワルについての差異化ゲームの危なさ」についてのみ説明します。

不道徳な差異化ゲームの加熱は危ない

同時代を知る雨宮処凛さんと中村佑介さんは、どちらも"差異化ゲーム"として、90年代の「鬼畜」「露悪」な文化圏を捉えています。

あ、私、この手の話するとなんかヤバくなる。普段の感覚とか吹き飛んで、「より鬼畜な方が偉い」みたいな90年代サブカルの感覚に支配される、と。
貧乏で、お先真っ暗で、自分以外の同世代の女子たちはキラキラ輝いて見えて、中学のいじめ以来ずっと対人恐怖で人間不信で、リストカットばかりしていた私にとって、鬼畜と言われるような世界に浸ることは、世の中への「復讐」のようなものだった。お前らが眉を潜めるこのようなものが自分は好きなのだ。着飾ってちやほやされて喜ぶお前らなんかと私は違うのだ。…本当は、私だって叶うなら着飾ってちやほやされたりしたかった。だけどそれが絶望的に叶わない時、数百円で買えるそれらの雑誌は、確実に私を救ってくれた。(第447回:90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻(雨宮処凛)) ※太字はラッコ強調
そんな空気の中で小山田さんの学生時代の眼差しや示唆する行為を、おもしろおかしく紹介する記事を載せた雑誌(Quck Japan第3号)は、社会問題としてのノンフィクションではなく、確実に露悪性を持って「どや!こんな過激なインタビュー載せれるオレ、かっこいいやろ!もうイジメられる側ちがうで!!」と露悪的に出されたように少なくとも僕には映っていました。(小山田圭吾さんのこと。) ※太字はラッコ強調

差異化ゲームとは何か。何でしょうね。はてなブログ文化圏でよく流通した言葉です。シロクマ先生こと熊代亨さんが使用していますので参考にして下さい(URL)。下記は古田ラジオさんの記事です。

端的にいって、サブカルとは一種のスタンスであり、信仰告白である。では、そのスタンスとは何かといえば、差異化ゲームである。「他人よりも優れた感性を持っている」「他人が知らないこんなマニアックなアーティストを知ってる」このような発言によって他人との差異を強調し、それによって勝敗を決めるゲーム、それが差異化ゲームであり、それによって駆動されるのがサブカルなのだ。(サブカルに残された最後の差異化ゲーム) ※太字はラッコ強調

差異化ゲーム。私はこの言葉で、靴でマウンティングする人のことを思い出します。より尖った靴のほうが偉い。そんな意味不明な論理で優位が決まるらしいんですよね。いや、「どのブランドが偉い」ならまだ理解できますが…。このように差異化ゲームは明確な基盤を見出だし難い事があります。「ワルい方が勝ち」みたいな、道徳や社会秩序の視点からは意味不明なルールも、発生する可能性があるわけです。「鬼畜」「露悪」の差異化ゲームは、不道徳のチキンレースとか、ワルについての差異化ゲームとでも呼べるでしょう。

ワルについての差異化ゲームは、ジョセフ・ヒースが『反逆の神話』で詳しく論じているところです。「規範への反逆」という差異化ゲームでは、法律や支配的道徳への反逆そのものに、価値を見出します。この反逆ゲームの問題は、単なるいじめや犯罪、加害行為といった社会的逸脱と、社会的抑圧からの解放闘争や、文化的革命の実践や「異議申し立て」といったものの区別が曖昧になることです。見方を変えると「好きなことをしてそれが革命の大義にもなる」という、ご都合主義で自分に甘いゲームへ堕落する可能性を孕みます。

この解釈では、「鬼畜」や「露悪」の知識やパフォーマンスは、差異化ゲームにおけるアイテム(顕示財)の面があったと言えます。「こんな尖った[鬼畜な][悪趣味な]感性を持っている」と他人との差異を強調するアイテムだったのです。

記憶では、サブカルに限らず昔のオタクもよく差異化ゲームをやっていました。ある名作の元ネタを誰がどれだけ指摘できるか勝負は、今でもよくやるでしょう。ソースティン・ヴェブレンの流れを汲む人なら「顕示的消費」とか「顕示的行動」のバリエーションと見做すかもしれません。

定義はこのくらいにします。こうした"差異化ゲーム"の一種として、90年代の「鬼畜」「露悪」な文化圏を捉えることができるわけです。

小山田圭吾さんについてはどうでしょう。続報として次の記事が公開されています。

「記事にあるほど酷いいじめの現場は見たことはないです。それにあれほどのいじめがもし本当にあったとしたら、もっと学校全体で問題になっていたと思うんですよね」[…中略…]しかし何人かの同級生に聞いても「あそこまでひどいいじめは知らない」という。さらに「ウケ狙いで話を盛ったのでは」という意見がほとんどだった。(小山田圭吾の同級生が明かす「自分は特別」上級意識、「いじめ話は盛った」の指摘

「盛った」。仮にこの記事の解釈が妥当だとすれば、「差異化ゲーム」の問題であるわけです。中村さんの解釈と同じ線のものですね。

いじめの描写を「盛った」とすれば、それはなぜか。その方が優位に立てるからではないでしょうか。意味不明と感じる人もいるでしょうが、それが差異化ゲームなのです。尖った靴の話を思い出して下さい。

こうした差異化ゲーム的解釈には、批判がないわけではありません。例えばロマン優光さんによる次の批判。

雨宮さんの書いている「より鬼畜の方が偉い」という価値観はあくまで雨宮さんをはじめとする受け手やイベント界隈の作った勝手な価値観であり、本来はそういうものではなかったのだと思います。それはフォロワーたちによる卑小な解釈であり、ロフトプラスワンのイベントに集まっていた勘違いした連中が調子にのっていった結果でしかなく、本来のものとは関係のないものだと私は感じてしまいます。(雨宮処凛の『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻』を読んで:ロマン優光連載110

私はこういう意味だと理解します。<差異化ゲームに興じたのは、受け手やイベント界隈である。オリジナルはそのような卑小なものではなかった>。

果たしてオリジナルの人たちに対し「過激な方が面白い」「注目を集められる」「雑誌も売れる」とのインセンティブが全く働かなかったと言い切れるのか。これは疑問に留めます。

オリジナルの意図がどうであれ、そのフォロワーはオリジナルを差異化ゲーム的に解釈した。

仮にオリジナルがその言葉の刃を強者にのみ向けていたとしても、あるいは異常とされる人物を単に観察するのみだったとしても(それも加害になり得ますが)、フォロワーもそうだとは限りません。フォロワーにはタガが外れて弱者を虐げ、観察のみならず加害する者がいたことは既に知られています(ロマン優光『90年代サブカルの呪い』参照)。

不道徳さの差異化ゲームにおいて、「よりラディカル(過激)な方がカッコいい/勝ち」というルールのみ伝染し、「弱者を虐げてはいけない」といった「ローカルルール」脱落が起こったし、今後も起こりえます。

オリジナルに対し、フォロワーの「製造責任」を問うこともできるでしょう。これにも増して、「オリジナルの意図を離れて暴走する危険がある」点が、より興味をそそり、注意を要する点と考えます。不道徳のチキンレースやワルについての差異化ゲームは、作り手の意図を超えて伝染し暴走し、加害を生じる危険があるわけです。これが歴史の教訓の一つでしょう。

今後はオリジナル/フォロワーの区別を超えて、「不道徳さの差異化ゲーム」そのものの意義に、懐疑の目を向けるべきではないかと思います。