悪趣味/鬼畜系ブームとは何だったのか?  ロマン優光『90年代サブカルの呪い』

はじめに

90年代鬼畜系文化は、日本における「抑圧と自由」の問題を考える上で学びの多い対象と言えます。といっても私は殆どこのテーマについて知りません。というわけで手に取ったのがロマン優光『90年代サブカルの呪い』(コア新書 2019年)。……かなりの良書でした。

著者のロマン優光さんは鬼畜系に対し、「昔は何でもありでよかった」というスタンスではなく。一定の良識を持って対峙しています。このため単に対象ベッタリよりも、読者がともに思考できる有意義な語りになっています。

鬼畜系とは何か

特に90年代後半に盛り上がったサブカル・ムーブメントです。「徹頭徹尾加害者であることを選び、己の快楽原則に忠実に生きる利己的なライフスタイル」(同書Kindle版 No.73)が、鬼畜系ライター村崎百郎さんによる鬼畜の定義です。こう書くと怖そう、不愉快と感じる人もいるでしょう。半分はその通りです。この定義は村崎さんとともに、鬼畜系の代表格であった青山正明さんへ向けた追悼原稿の一節です。

定義通りと言いますか、今から読むと、青山さんの文章にはかなりキツい部分も多いです。例えば、犬や猫をただ虐殺して喜んでいるかのような次の文章。

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(『危ない1号 Vol.4 青山正明全仕事』データハウス 1999年 86頁)

他に13~歳の少女を買春しにタイに行った顛末を語っていたり(126頁)、そこでヘロインをやったりと、色々と自由にやっている。

この点には少し注意書きが必要です。動物虐殺にしても買春にしても、青山さんが実際にやったのかは曖昧です。テクストの外側は見れないので、わざと自由人ぶったり、異常者のように振る舞っている、「そういうパフォーマンス」という可能性も残るわけです。当ブログらしく言えば、「異常者マーケティング」ですね。

ロマン優光さんの解釈は、まさしくそのようなものです。…青山や村崎は一定の良識を持ちつつ、あえて露悪的に振る舞っていた。しかし模倣者たちは違った。中には本当に弱いものイジメでしかないものを、「面白い」と勘違いして生産した凡庸で悪質なフォロワーが現れた、……というのが本書の話の筋です。

この辺の構図は、ミチコ・カクタニ『真実の終わり』が批判するようなポストモダニズムと現代右派の関係に似ています。

いわゆる「ポストモダニズム」の最良の部分とは何か。善と悪の二項対立のような単純素朴図式を退け、より繊細に物事を把握しようと心がけたことだ(と擁護者は言います)。しかしアメリカではこれに影響を受けた右派の中で、都合の悪い客観的事実を否定したり、結論を先送りする目的で、懐疑的・否定的な議論を行う者が現れたと。

ちょっと『90年代サブカルの呪い』から、上記「フォロワー」のやらかしの具体例を引用します。

当時、ある雑誌の誌面で組まれた特集を元に内容の紹介をします。 コンビニでバイトをし、店長と結託してポットのお湯に糞尿を入れ、小学生にそれで作ったカップラーメンを振る舞って食べさせる。「ブスを晒し者にする」というコンセプトで路上で女性の顔を撮り続ける「ブスファイル」。乗車拒否したタクシーに対して近代化センターにクレームを入れ、謝罪に来たタクシー会社の社長に対してヤクザのふりをして恫喝。ゴミ屋敷の住人を戦争体験の取材と騙して撮影したり、留守宅に侵入して内部を撮影。切り取り屋(時効になった債権を裁判所から買い取り、それを元に違法に取り立てをする非合法な仕事)に同行して、取り立てを受ける家族を無断で撮影。(No.1398) 

人権軽視以前に、普通に犯罪行為じゃない…?。この本では、今では有名になったアーティストが女子トイレを覗くことを「現役で」趣味にしている、そんな「アート無罪」な事例も批判的に挙げられています。

90年代はこのような振る舞いが「炎上」しない、不思議な時代との印象を受けます。なおロマンさんは「いや、当時だってあり得ない話だったのですが」と批判的です(No.1358)。こうしたロマンさんが示す良識のラインにより、読者は事態を解釈しやすくなっています。(あくまで参照枠ですが)

本物とまがい物の区別はつけられるか

ロマンさんの打ち立てる区別は、鬼畜系は異常なものを観察して遊ぶ。まがいものは異常なこと(犯罪)を推奨する。というものです。

悪趣味/鬼畜系ブームで最初に提示されていたのは「世の中に潜む異常なものを観察して不謹慎なことを言いながら遊ぶ」ということだったという私の見解は、他の箇所でも書いたと思います。異常なものを観察して遊ぶのであって、異常なことを推奨していたわけではないのです。ある種の異常性をかかえた村崎氏、根本氏といった人たちも、ギリギリのところで普通のところに留まっていたはずです。異常性を自分の中に見いだしている人たちに対して、村崎氏はちゃんと普通の領域に留まるようにメッセージを送っていたはずです。[…中略…]そもそも、世間の常識と断絶して生きている人は自分の行動を異常だと認識せずに普通のことのように感じているわけで、他人に異常性をアピールするために行動するわけではありません。自分の異常な行動を異常なゆえに面白いと思って行動する人間は、ただの調子にのってるバカでしかないのです。(No.1418-1419)

鬼畜系の意義の一つは、多かれ少なかれ疎外や異常さを感じている読者が、鬼畜系コンテンツに触れて「そのままでいいんだ」と受け容れてくれるものを感じる、といった優しい点にあるのでしょう。

善悪二元論で救われない人が救われる繊細さがある。加えて紋切り型の道徳で押しつぶされてしまう、異常で珍しい経験を追体験する。そうした意義があるのだと思います。

またロマンさんによる鬼畜系とまがい物の区別は、個人に対する倫理的指針になります。まがい物には繊細さがない。

しかしどうでしょう。先程引用した青山さんの犬猫虐待が「本当にやった」のか「単なるキャラとしての作り話」なのか、見分けるのは難しくないでしょうか(いずれの場合も問題含みです)。

J.L.オースティンが論じたように、単に観察事実を記述したつもりでも、人によっては「こういうのをやれ」「こういうのが面白い」「こういうのが正しい」といったメッセージを読み取ってしまうものです。

この意味では青山・村崎さんのような真正鬼畜系の人物も、無罪というわけにはいかないでしょう。ロマンさん自身も、「そう問われるならば、違うとも思うし、結局は同じではないかとも思います」と述べています(No.1441)。

鬼畜と抑圧、現在をどう捉えるか

もう一つ。本書を読んでいると、「今では許されないだろうな」という言葉が10~20回くらい浮かびました。たった20~30年前の出来事なのに、私はすっかり本物の鬼畜系も、まがいものもおしなべて「許されない」と感じている。誰に?世間が、自分が。"社会的な正しさ"の見地から。この感覚は正しいのでしょうか。

いわゆる「ポリコレ」に批判的な人々の中には、鬼畜系の衰退に向かった時代変化を、「抑圧的」と考える人もいるかも知れません。

フロイト心理学に近い人間観だと、人間は文明に抑圧されている。本当は内外に向かう過剰な攻撃衝動を抱えている。という事になります。この人間観からは鬼畜系を復活させる事は人間と自由の解放につながり、ハッピーだという事にもなる。

しかしこうした人間観は、どの程度妥当でしょうか。本書に取り上げられている、まがいものを含む鬼畜系の餌食になったのは、先に引用したように立場の弱い人たちです。「狼の自由は、羊にとって死を意味する」という言葉があります。総評すれば鬼畜系ムーブメントのような、90年代の差別的な価値観が「抑圧」されて困ったのは強者で、得をしたのは弱い側でしょう。

そして現代の我々は、例えばオタク差別が衰退したことに、別に「抑圧」を感じてはいない。加えて案外、時代や社会ごとの「抑圧」に柔軟に適応できるよう人間は出来ているかもしれない。それがより実態に近い人間の姿かもしれません。

「抑圧」のポジティブな意義と「自由」のネガティブな意義を学ぶのに、本書は格好の書物と言えましょう。

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